一商人として
――所信と体験――
相馬愛蔵・相馬黒光

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)郷里信州を出《い》づ

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)早速|糯米《もちごめ》を

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(例)※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]話を
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   序言

 この書には中村屋創立当時から現在までの推移をほぼ年代を追うて述べているが、店の歴史を語る主意ではない。店員たちに平素抱いている私の考えを取りまとめて話したいと思い、すべて自分の体験に即して商人の道を語ろうとしたので、勢いこの体系をなすに至った。私の店は、累代のしにせでもなければ親譲りの商家でもない。元来私は農家出で、一書生として青年期を送り、たまたま志を商売に起し夫妻力を協せて今日に至ったのである。したがって私の言うところは素人の考えにすぎない。世間の人は私に向かって中村屋が繁昌する秘訣を話せと云い、商売のコツを教えてくれなどと云う人があって、そのつど私は当惑する。自分は商家に生れたのでないから、いわゆる商家伝来の秘訣も何も知らぬ、もし中村屋の商売の仕方に何か異ったものがあるとすれば、それはみな素人としての自分の創意で、どこまでも石橋を叩いて渡る流儀であり、また商人はかくあるべしと自ら信ずる所を実行したまでのものである。したがって、自分だけが行い得られて人には行われないというようなものは絶対にない。ゆえに我が店員はもとより、かつての我々と同様、新たに商売を営もうとする人には多少の参考にもなろうかと思い、ひとえに後より来る人々への微衷よりして筆を執った次第である。
 また「主婦の言葉」は、妻が私の言い漏らしたものを追補する意味で執筆したのであって、これもすべて若き人々への愛より語るものである。妻はさきに「黙移」を著し、相馬一家の自伝的なものはそちらに述べているのであって、本書はどこまでも「一商人として」の著であることを一言しておく。

  昭和十三年六月

[#地から2字上げ]相馬愛蔵
[#改丁]

 本郷における創業時代

    郷里信州を出《い》づ

 孔子は「三十にして立つ」と言われたが、私は三十二歳で初めて商売の道に入った。つい昨日のことのように思うが、それからもう三十七年経ち、今年は六十九歳になった。しかし私はまだ素人だという気がしている。中村屋は今でも素人の店だと思うている。商売に縁のない家に生れ、まるで畑違いの成長をした人間が、どこまでも素人の分を越えないで、こつこつと至って地味に商売をしているのが中村屋である。素人のすることだから花々しいものは何もない。が、この素人は人の後についてここまで歩いて来たのではない。中村屋の商売は人真似ではない。自己の独創をもって歩いて来ている。したがって世間と異《ちが》うところがあって、何故ああ窮屈に異を樹《た》てるのかと不審がられる向きもあろう。世間の例によらない商売の仕様をするので、お得意先に御不便なこともあろう。店員諸子にしても年少の人たちの中には、店の仕来《しきた》りに従うて仕事をしながらも、何故そうするのか解らないでいるものがないとも言えない。私は自分が独自の道を歩いて来たのだから、誰にも真似をせよとは言わない。各人各様の道があり、私の店にいる諸君が、他日中村屋を出て、自ら新機軸を立て、大いに個性を発揮して新商道を起してくれることをこそ望むのであるが、それにつけてはまず自分の経験したところを話し、中村屋の商売の仕振りをよく理解してもらうとともに、将来の参考ともならばと思うのである。

 私が三十二歳にもなって商売に志したのは、自分が生れつき勤め嫌いで、あくまで独立独歩、自由の境涯を求めたことに原因するのはいうまでもないが、それとともにもう一つ直接の動機となったものがある。それは信州の田舎に嫁して来た私の妻が、風俗習慣の違いと安易な田園生活に希望を失い、精神的苦悩から心身疲労して病気になり、行末危ぶまれる状態となったので、病気療養とともに何らかここに新たな生活を起す必要があったのである。
 私は信州、妻は仙台、この二人の結婚の動機も、いま考えると不思議なところにあった。自分は早稲田を卒業後郷里に帰って、専《もっぱ》ら蚕業の研究に没頭し、ついにその研究の結果を記述して「蚕種製造論」なる一書を出版した。この書は我が国蚕業界の進歩改善に少しは貢献するところがあったと今でも自信するが、五版を重ね、全国蚕業家の注目するところとなって、その原理による蚕種を方々から頼んで来るようになり、私もその依頼に応じて、どうやら蚕種製造が私の仕事の
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