私はなるほどと思い、その教えを深く感謝した。この山葡萄に着目したのは私ばかりでなく、福島県岩手県等でこれから葡萄液を製造することを思いつき、苦心研究中の人があった。私はそれらの人々にもこの豊田翁の言を伝え、その失敗を未然に免れしめることが出来た。

    割引券を焼く

 明治三十九年十二月は、我ら夫婦が中村屋を譲り受けてから満五年に相当した。『五年経った』この感懐は私の胸に深かった。書生上がりの素人が失敗もせずにどうやらここまでやって来たのだ、また店は日に日にいささかずつでも進展しつつある。これ偏《ひとえ》にお得意の御愛顧の賜物であると思うと、私は何かしてこの機会に謝恩の微意を表したくなった。そして思いついたのが開業満五周年記念として、一割引の特待券を進呈することであった。割引券も上品に美術的にと意匠して、正倉院の御物中にあるという馬を写して相馬の意味を通わせ、当時有名な凸版印刷会社に調製を頼んだ。
 その割引券一万枚が出来上がって間もなくのことであった。「松屋のバーゲンデー、売り切れぬ間に」という新聞広告が目についた。今の銀座松屋がまだ神田今川橋時代のことであった。二人の若い男女が急ぎ足で松屋に駆けつける絵入りの広告で、今なら百貨店の特価売出しは毎度のことだが、当時としては珍しく、思い切った試みをするものだと誰しもかなり興味を惹《ひ》かれた。私もこの広告に惹きつけられてわざわざ松屋に出かけて行った。
 割引場に入って見ると押すな押すなの大盛況で、その二室とも身動きもならぬ有様だ。私はなるほどこんなものかと、すなわち割引というものに対する大衆の心理に驚き、混雑に押されて外に出たが、他の各室の至って閑散なことはまた私に別の驚きをさせた。
 帰途電車の中でも、私はバーゲンセールについて、色々と考えさせられた。
『私は今日の広告を見て行ったから三割引で買物が出来たが、前日松屋で買物をした客はどんな気持がするだろう、同じ品を今日の客より三割高く買わされたという感じをしないものだろうか。そう思ったらずいぶん腹も立つことだろう』
『バーゲンデーは一週間限りだが、八日目に行った客はどんた気持がするだろう』
『店の方から考えても、日を限っての廉売をして一時的に多数の客を吸収することは、能率的に見てもまた経済的にも決して策を得たものではない。どちらから考えても割引販売ということは
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