らましを告げて、年頃の御なつかしさ是非に一度御尋ね申したしとの心、夢の間も忘れませねど、御住居の知れ難さに、今日まで空しく過ぎしなれど、いよいよ来《こ》む春よりは芸妓に出されむといふ身辛く。いかにもして一度父様に御目にかかり、その御指図をも戴きたしとの願ひ切なる折から、運よくも、昨日髪結のお吉の、福島村あたりに、詫び住居したまふ御様子との事、母様にささやきしを漏れ聞きて。詳しくは分りませねど、よも知れぬ事はあるまじと、大胆にも今日の昼過ぎ、母様にはそちまでと偽りて、福島村まで参り、そこよここよと問合はせましたれど、そんなお方は知りませぬと、いふ人のみにて手がかりなく。尋ねあぐみしその内に、日は暮れ果てて飛ぶ鳥も、塒《ねぐら》に急ぐ時となり心細さの堪へ難ければ、ひとまづ家に帰らうと、ここまでは参りましたのなれど、思へばかくまで晩《おそ》なはりし身の、何といひ訳したものと、心付いては足も進まず。幾度かこの橋を行き戻りして時を移し。今は帰るに帰られず、いつそこの川へ身を投げむかと、死神に誘はれてゐましたのに。計らずお目にかかつたは、何よりも私の仕合せ。母様の縁に繋がる私の身、不憫とは思し召すまじけれど、これよりお家に伴ひたまひ、是非に父様に逢はしてと。後は涙にかきくれて、しかとは聞き取り難けれど、言の葉末におく露は両の眼に満ち充ちて、月に輝く玉とも見ゆるに、金之介は深く憐れを催して、金三の今はこの世になき人の数に入りしとの事とみに告げかね、いづれにしてもいひ訳なき身の、このままに帰られじとならば、我の送りてお艶に詫びして帰させむは易けれど、さてはいよいよそなたのお艶にや疑はれむ。母様の何と仰せらるるかは知らねど、ともかくもその望みに任すべしとて伴ひしが、やがて二人の影は橋の袂に消え失せぬ。その夜お秋は金之介より、お静の一部始終をききて、零落《おちぶ》れたる今の身の、袖に涙のかかる時は親族知己さへ見離せしに、お静の慕ひ来りし心頼もしく、さまでに父様を慕へるものの、金之介の為悪しからむやうはなし。なまじひなる嫁貰ひて、気兼ねせむよりはと、先の先まで早くも思ひ定めしかど金之介の、これまでさへあるお艶の浮薄、いかでたやすくお静を手離すべき、よしなき事をいひ出でて、断られなば恥の恥、それよりはお静不憫なれど、返すにしかじといふ詞に。心ならずも従ひて、お秋はその翌朝お静に代はりての詫手紙《わびじやう》持たせお艶の方へ送り返しぬ。
 それよりお秋は、お静の事いひ出でては気遣ひしが。一月あまり経ちたる頃ゆくりなくもお静よりの手紙届きぬ。何事と開き見れば。
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「急ぎ御願ひ申上候この程より母事俄に病気づき養生かなはず遂に昨夜死去いたし参らせ候今は申上候も涙の種なれどその二三日前より深くこれまでの事後悔いたしなき後は何事も御断り申上候て家財はのこらずあなた様へお返し申上私事は下女になりとも御めし遣ひ下され候やうくれぐれも御願ひ申上よと申しのこし参らせ候それにつけてはゐさい御目もじの上申上たく候まま何事も御ゆるしの上御二方様の内御越いただき候やうくれぐれも願上参らせ候とり急ぎあらあら申上候かしく」
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 されど金之介は、思ふよしやありけむ。お秋の心もとながりて、我ゆきて見むかといふをも止めつ。ただ人していはせけるやうは、お艶の遺財は、たとひもと父の、彼に与へたまひしものなればとて、我の再びこれを受けむやうはなし。ただお静の、外によるべなければとて、身一つにて我方に来らむは差し支へなし。母上もいとほしきものに思ひたまへれば、いかやうにも世話なし遣はさむにとの事なりしが、その後の事はいかなりゆきけむ。今も上福島村なる淵瀬の住居には、老母ひとり淋しげに留守居して、もの堅き息子の、日毎学校に、通勤するを見るのみなりといへり。
 されと岡焼連はいふ。お静は目下同地なるある手芸学校の寄宿舎にあり。これいかで金之介方に嫁入るべき筈ならでやはと。いづれにお静は、色清き世を経るなるべし。(『女学雑誌』一八九六年一二月一〇日)



底本:「紫琴全集 全一巻」草土文化
   1983(昭和58)年5月10日第1刷発行
初出:「女学雑誌」
   1896(明治29)年10月25日、12月10日
※底本では、文末の日付に添えて『女学雑誌』を示す記号として「*」を用いていますが、『女学雑誌』に直しました。
入力:門田裕志、小林繁雄
校正:松永正敏
2004年9月20日作成
2005年11月4日修正
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