野路の菊
清水紫琴
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)欹《そばだ》てぬもなし
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)藤助|爺《おやじ》は
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)片※[#「日+向」、第3水準1−85−25]《かたとき》
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その一
名にしあふ難波の街の金満家、軒を並ぶる今橋筋にもこは一際眼に立ちて、磨き立てたる格子造り美々しき一搆へ、音に名高き鴻の池とは、このお家の事であらうかと、道行く田舎人の眼を欹《そばだ》てぬもなしとかや。標札に金満家てふ銘こそ打つてなけれ、今様風にその肩書を並べなば、何々会社社長何銀行頭取何会社取締役と、三四行には書き切れまじき流行紳商、名さへも金に縁ある淵瀬金三とて、頭の薬鑵と共に、知らぬ人なき五十男、年を問うより世を問へとは、実にこの人の上をいへるにやあらむ。山高帽子いかめしく、黒七子の羽織着流して、ゆつたりと蝋塗の車に乗りたる姿は誰が眼にも、帽子を脱げばかみな[#「かみな」に傍点]月冬枯時もはや近く夕陽照りそふ禿頭、その後頭には置く霜の、白髪あるべき年輩とも、心付くもの稀なりとか。妻はその名をお秋といひて、金三よりは年二つ劣れりとは、戸籍の面に明らかなるものながら、ふけ[#「ふけ」に傍点]性にて老人じみ、五ツも六ツも姉様の、出戻りなどしたるがかかり居るにやと、誰誤らぬものなきも道理、金三には別に、お艶といへる妾ありて家事万端とり賄ふなれば、新参の奉公人の、いつもお艶を奥様と思ひ、お秋を御隠居様と呼ぶも、あながちに咎むべき事ならねど、奥様と見誤らるるお艶の嬉しさに引替へ、御隠居様と呼ばるるお秋の心根、推し量らぬものぞなき。されど、慎み深きお秋の、ついぞ角目立ちたる事はなけれど、口さがなき下女下男は、とりどりに噂してお艶にくし[#「にくし」に傍点]といはぬはなけれど、人の事より我が身の上大事がるが世の習ひなれば羽振よきお妾さんに逆らふて、その身の損を招くでもないと、表向きはお艶に媚び諂へど、女部屋でのひそめきは、いつもお艶のよしあし沙汰なり。古参より新参に、新参よりまたそれへそれへと、いひ伝へ聞き伝へて今は誰知らぬものなきお艶の素生、彼は芸名を小艶といひて、もとは南地に左褄とりしものなりとか。芸よりは容貌《かほ》で売れ容貌よりは男たらしの上手にていつも見番に千寿の花の咲かせしものなりしに、年頃物堅かりし金三の、四十二の厄年に祟られてや、七八年前よりはからずお艶に迷ひ出し、女はこれととどめをさされて、家を外なる駄々落遊びを、おとなしきお秋は気にして、それ程御意に入りしものなれば、お落籍《ひか》せあそばした方がと、家の為夫の為に勧めし詞を渡りに舟と、年にも恥ぢず受け込みて、島の内あたりに妾宅搆へさせ、それにてやつと尻落着きたるものの、落着かぬは妾のお艶にて、彼はその前より俳優の丸三郎といへる情夫があり。それへ金のつぎ込みたさに、お客とりとの評判取りしほどの事、いかで心から金三に身を任すべき。落籍されての後も、危き首尾に丸三郎との逢瀬絶えざりしが、金三の顔次第に広く、身の忙《せは》しくなるにつけ、妾宅通ひも心に任せねば、本宅へとの命黙し難く、引取られては来しものの、あれのこれのと苦情を付けて、奥様との同居心苦しければ、年に一二度は気保養の為、湯治にも遣つて戴きたし、次にはまた奥様より世間並の召使ひ待遇《あしらひ》これも前以てお断り申上げたしなど、有らむ限りの我儘述べ立てたるは、本宅へ這入らじとのたくみなりしに、お艶にぞつこんはまり込みたる金三のかかる事聞きても打腹立たず。可愛き子供にあまへられてでもをるかのやうに、あれもよし、これもよしとうなづきて、さすが商業界の利者《ききもの》とも云はるる身が、みんごとお艶に降伏したるは、遼東還附の一条よりもなほかついひ甲斐なき事なりしとのこの条《くだり》は年久しく仕ふる藤助といふ老僕が、まばらなる歯を喰ひしばりての述懐たり。赤ら顔のお三がその後を継きて、そこでサアお気の毒なはお心よしの奥様、旦那様より仰せ渡しでもあつたものか、妾風情のお艶に御遠慮なされて、いっさい旦那様のお傍へはお寄りなされず。旦那の御用は何もかもお艶でなければ埓明かぬと、覚悟をお定《き》めなされてか、一にも二にもお艶どのお艶どのとお頼みなされ、御自分は御隠居気取りの引込思案これ程歯痒き事はなし。もしこれが我が身ならばお艶を出すか、自分が出るか、二ツ一ツのはなしをつけても、奥様には金之介様といふお子もある中、なんのなんの御親類方がだまつて見てゐらるる事でなし。とはいへ奥様いとしといふ素振仮りにも色に顕はれては、一日|片※[#「日+向
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