」、第3水準1−85−25]《かたとき》ここの家に置かるる事でなし。今日までにこれでしくじつたが幾人《いくたり》と指折りかくるに、瘠せぎすなお針女はこれを抑へて、こんなことは、奉公人の我等の搆ふた事ではなけれど、腹立たしきはお艶めが、奉公人の咽喉《のんど》をしめて、旦那に我が世帯持ちよき手柄見せむとて、奥様の万事鷹揚なりしに引替へ、朝は天井の映るやうなお粥に、香のものは三年越の古たくあんばかり、新漬ものはお醤油がいるといふて喰はさせず。なるほどこれ位にしたならば、これこれの雑用が減りましたと、旦那への手柄顔は出来やう、それがまたぞつこん旦那の気に入りて、三味線の外持ちたる事なき身の、釜の下まで気を付くる心遣ひ、嬉しいぞや過分なぞやと、サそこまでは聞かねど、何でもそこらの事であつたと見え、お艶の受けはよくなるばかり、これで末まで通せるものならば、悪い事はせぬが損と、思はずこれも力み返るに、藤助くはへ烟管をポンと叩き、それがサア若旦那も今年はもう十八お艶のさしがねに出た事とは御存知なく、嬉しさうに東京へ、修業に御出でなされたは、はや三年越来年あたりは高等学校とやらへ、御入学も出来るとやら、その上で大学でも御卒業なされて見や、それこそ大したお人にならるるなり。その時こそは奥様もしめたもの、いくらお艶が威張らふとても、若旦那の代になれば訳もなく閉口しやう、そこでこちとらもその時は甘《うま》いものも喰べさせて戴き、永年辛抱の御褒美に有付くというものよといふを言はさずお針女は進み出で、お前さんは未だ眼が低い、そこらにぬかりのあるお艶ではなし。一人息子の金之介様動きなきお跡取りとは、お艶もチヤンと知つてかかり、己が身寄りのお静さんを、養ひ女《むすめ》として育ててをるは、何の為ぞと思はるるや、旦那様は御老人、その亡き後はお静さんを、若旦那のお嫁にして、親顔せうとの深いたくらみ、それなればこそまだ十三の小娘のお静さんを、若旦那の夏休みにお帰りなされし時は、一倍も二倍もつくりたて、お茶のお給仕煙草の火、小間使ひにでもさすべき用を、若旦那の事といへば何でもお静さんにいひ付け、今日は堺の大浜、明日は大川の凉みと、下へも置かず若旦那の御機嫌とるは、我等の咽喉しむるお艶の所作とも覚えず。それもこれも我が身の行末を案ずるからの事とは、この私の黒い眼で睨《にら》んでおいた。お艶の曲事《ひがごと》はまだこれのみでなし、年に二度の湯治行き、あれをお前さん達は、並の湯治とお思ひかへと、得意顔に説き出せば、藤助ホクホクうなづきて、それやアなんぼ老人の己れだつても勘付かぬ事はなし、病人とも見えぬ身躰の保養三昧旦那のお種宿したき願ひと、口癖のやうにいふてはをれど、忙《せわ》しき旦那の一所に行かれぬを幸ひに須磨の海水、有馬の温泉と、毎年極まつて行くのなれど、薬は水でも湯でもなく白い首ののつぺり[#「のつぺり」に傍点]男とは、妾宅伝来のお鈴の蔭口、あれも大方近頃手当でも薄らいだのであらふ。この事だけは、一言旦那に申上げたけれど、奥様でさへ口をつぐまるるに、下部《しもべ》風情の、我等が出しや張る幕でないと、こらへてはをるものの、この間もこの間とて奥様の、お艶の留守を気にせられお艶殿が早う帰つてくれずでは、旦那様のお世話は不行届きがちでお気の毒やと、お艶の居ぬ間はいっそう旦那に気を兼ねらるる様子、まるで初心の嫁御寮が、姑の前へ出るやうなと、己れは見てさへ涙が溢《こぼ》れると老人の一徹に、思はず水涕打ちかめば、お針とお三は一時に吹出し、藤助どのの何事ぞ、当節柄そんな忠義三昧は流行らぬ流行らぬそれよりは鬼の来ぬ間の、洗濯時とは今日この頃の事、お艶どのも、大方須磨で今頃はお楽しみであろ。我等は似合ひのお芋の御馳走、出し合ひで買ふじやないかと、お針の発議はたちどころに成立ちて、藤助|爺《おやじ》は使命を帯び、風呂敷片手に立出でたるが、やがては焼芋の砲煙弾雨に、お艶の噂も中止となりしなるべし。

   その二

 日髪日化粧の昔日に引替へ、今は堅気の奥様風、髪は月六才の定めにて髷は丸髷の外は、品格下るといひて結はず。お妾さんの品格とはどんなものにやと、蔭で舌出す髪結のお吉《きち》も盆暮の祝儀物、さては芝居のお供に外れじと、喋々しきお世辞にお艶を嬉しがらす奥の手は、いつも丸三郎の噂なり。私が髪結風情ならずば、身上打込んでも大事ない男と、櫛取る手さへ止めて、心底丸三郎贔負のやうに夢中になりてのはなし振り気に叶ひ、さんざん人をたらせし覚あるお艶も、これにはふいと釣込まれて、下女下男よりは吝嗇《けち》と譏らるる身が、お吉よりは天晴れ切れ離れよきお妾さまと誉められぬ。
 四畳半の小坐敷に、本段通二枚敷き列ねて、床の間の花瓶には白菊二三本あつさりと活けたるを右にして、縁側の明るき方に向ひ紫檀の鏡台据
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