へ、お秋より教へられて、おぼろけながら女の道をも弁《わきま》へつ。我が母なるお艶の、お妾さまといはるる身なるが、情けなく恥づかしという事も分り。せめては金三を父様《ととさま》と呼ばるるが勿躰なけれど嬉しき事に思ひて、日を送りしに。ゆくゆくは金之介様のお嫁にとの、お艶の心搆へ聞き知りてよりは、身を重んずるといふやうなる心も出来て、お艶よりはお秋を見習ひ、蓮葉ならぬ育ちたのもしかりしに。お艶の方へ引取られてよりは、昨日までもお嬢様と呼ばれし身の。何事ぞ生酔の客に、手を引張らるる事もあり、なまめかしき芸娼妓より、姉さんと親しげに言葉掛けらるるが、身を切らるるより辛く。などて母様の、かかる営業《なりはひ》したまふらむと、それさへに悲しかりしに。日頃好まざりし三味線一時に浚《さら》へさせられて、明くる春よりは芸妓に出ねばならぬ身の、その撥の持ち方はと叱られてより。さてはさうかといつそう我が身の上悲しく、いかで父様の、かかる折にも来まさむには芸妓にならで済むやう、母様にもいふて戴かふものと。そぞろに金三の上忍ばれて、お艶に金三の事聞き合はす時あれど。お艶はいつも不興気にて、父様とは往年《むかし》の事、私をもお前をも、お捨てなされし淵瀬様の事、いつまでも父様といふものでなし。聞けばこの頃それからそれへと引越して、今はいづこに居らるるやら、分らぬといふ人の噂。いづれにこの後よき事はなかるべきに、父様と呼ぶは私はもとより、そなたの為にもならず。それよりはそなたも年頃、今に我が腕一ツにて、善き父様探しあて、可愛がつて貰ふがよいと。果ては笑ひに紛らすを、思ひかねて再び問へば、それ程淵瀬様の恋しくば、そなたの勝手に尋ね行くがよし、味噌漉さげて使ひに遣らるる姿、我は見るのが嫌なれば、その日限り、我とは縁切と思へかしと、それはそれはつれなき詞に。金三の上お秋の上さては東京に在る金之介の上まで、気遣ひは気遣ひながら、どこを尋ねてよきやら分らず。小さき胸にはおきあまる思ひに寐られぬ夜もあるを、情知らずのお艶は、夢にも知らで過ぎけむかし。

   その四

 ここは大坂の町外れ、上福島村の何番地といふに、近頃引越したる親子あり。あるじは去年脳充血にて世を去りしとの事にて、今は母子二人の淋しき住居。裕《ゆた》かならぬ、生活《くらし》向きは、障子の紙の破れにも見え透けど、母なる人の木綿着ながら品格よきと、年若き息子の、尋常ならず母に仕ふるさまは、いづれ由緒《よし》ある人の果てと。淵瀬の以前《むかし》知らぬ人も気の毒がり、水臭からぬ隣の細君《かみさま》、お秋が提ぐる手桶の、重さうなるを、助けて運びくるる事もあり。差配の隠居の親切に、何なりとも御用あらばと、いひくるるも嬉しく、泣きて移りし今の住居も、捨て難きまで思ひなりしは、貧に慣れし一徳にやなど、たまには母子《おやこ》の、笑ひ話する事もあり。金之介は学業半途に、呼び戻されて、学校を退きし身の、思はしき口とてはなけれど、世話する人あるを幸ひに、父の没後は土佐堀辺のある私立学校に通ひて、わづかなる俸給に、母子二人の口を糊するを、何よりの事と思ふ身の不運を、心ならぬ事に思へば、いかで今一度青雲の志を遂ぐる楷梯もがなと、精勤更に怠らず、暇あるをりをりは、独学に心を慰むる、若きには似ぬ心掛けの、校長にも知られてやその受けよし。今日は我が方に何か御馳走がある筈なれば、是非に同行して、ゆるゆる話したまへと、深切に勧めらるるを否みかね、母のさぞ待ち詫びたまはむにと思ひながらも、誘はれてそが方に行き、晩餐の饗応《ふるまひ》にあづかりたる後、好める学術の談話に思はず時刻を移し、やうやくに辞し去りたる頃は、はや仲秋望後の月の、大空に輝く時なりけり。
 幾度か雪駄直しの手にかかりて繕はれたる靴の、急くほど足痛けれど、携へたる紫メリンスの、風呂敷の中には、校長の注意にて母への土産もあるに、心勇みて玉江橋の中程まで来かかりたる金之介の、足音に驚きてや、橋の欄干に身を寄せたる婦人の、しかも年|弱《わか》く、月の光を受けて面《かほ》の色凄きまで蒼白く美《うるは》しきが一歩二歩歩み出たり。訝《いぶか》しとは思ひながら行過ぎたれど、何となく気にかかりて振り向けば、また立止まりてさめざめと泣くさまなり。あまりの不思議にしばしば見帰れば。かなたも気味悪げにこなたを見たるが。しばし何事をか打案ずるさまにて金之介の傍へ駈け寄り、あなたはもしや兄上様、イイエあの淵瀬の若旦那様ではござりませぬかと、問ふに金之介は驚きて、よくよく見れば稚な顔のいたく大人びて、見違へたれど紛ひもなきお静なり。いかにしてかかる辺りに彷徨《さまよ》へるにやと思へど、今は親しからぬ身の左右《さう》なくは問はず。ただ訝しげにその顔をうちまもるにぞ、お静は涙ぐみながら、言葉せはしくその身のあ
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