当世二人娘
清水紫琴

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)知己《ちかづき》

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(例)※[#「てへん+勾」、第3水準1−84−72]《かか》らひて
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   その一

 女学校これはこれはの顔ばかりと、人の悪口にいひつるは十幾年の昔にて、今は貴妃小町の色あるも、納言式部の才なくてはと、色あるも色なきも学びの庭へ通ふなる、実に有難の御世なれや、心利きたる殿原は女学校の門に斥候を放ちて、偵察怠りなきもあり、己れ自ら名のり出て、遠からむものは音にも聞け、近くは寄りて眼にも見よと、さすがにいひは放たねど、学識の高きを金縁の眼鏡にも示し、流行に後れぬ心意気を、洋服の仕立襟飾りの色にも見せて、我と思はむ姫あらばと、心に喚はりたまふもありとかや。これはいづれの女学校にやあらむ、いはぬはいふに増す鏡、くもらぬ影も小石川音には立てぬひそめきも、三人寄れば姦しき女の習ひ、いつしかに佳境に入りし話し声、思はず窓の外に漏れて往来の人も耳引立つめり。
 第何号室と記したる室内に、今しも晩餐を終りたりと覚しき女生達三四人団結して、口々に語らふ中にも、桜井花子といふ器量よし、学問はちと二の町なれど、丸ぼちやの色白といふ当世好み、鼻はさして高からねど黒眼がちなる二重瞼愛らしく、紅さしたらむやうに美しく小さき口もと、歯並は少し悪けれど、糸きり歯の二重になりたるは、なかなかに趣きを添へて、これも愛嬌の一ツとはなりつ、濃き髪を惜しげもなくくるくると上げ巻にしたるを、あはれ島田に結はせたらましかはと思ふばかりなるが、甘へたる調子にて我よりは一ツ二ツ年上らしき竹村といふ女生に向ひ、ちよいと君子さん、あなた今日の参観人御存知なのと、意味ありげに答を促しぬ。君子と呼ばれたるは年十八九少し瘠ぎすな方にて、鼻隆く口もとしまり、才気面に顕れたれど、神経質の眼つきかくれなければや、美しき中にも凄味あり、人によりては愛嬌なしといはむかなれど、これもまた花子とともに校内に一二を争ふ美人なり。ハアなぜなの私は存じませんよ。だが例のらしい人でしやう、ほんとに嫌な事ね、かの人達は学校を何と心得てゐるのでしやう、ほんとに学校の神聖を汚すといふものですね。校長さんはなぜあんな人に参観をお許しなさるのでしやうと少しく角張りかかるを花子はホホホホと軽く受けて、また君子さんのお株が始まつたよ、そんな事はどうでもよいではありませんか、それに今日来た人は、そんな筈の人ではなからうと思ひます。校長さんもたいへん丁寧にしていらつしつたし、――何でも真実学事の視察に来た人らしく思ひますよと熱心に説きかかるに、今一人の女生鈴子といふが横槍を入れ、これはこれは御弁護恐れいりまする、これには何か深い意味がございませうから、私はここに緊急動議を呈出するの必要を感じました、何と皆さんそれよりも今日の参観人に対する桜井さんの御関係の、御説明を戴きたいものではございませぬかとしかつめらしくいひ出るは代議士なんどの娘子にやあるべからむ。君子は直ぐに声に応じて、それは私も御賛成申しますよ、どうも少し恠しいのよ、サア桜井さんあなた御存知の方なんでしやう、まつ直ぐに仰しやいよ、おつしやらなければこうしますとはや二人してくすぐり[#「くすぐり」に傍点]かかるに、花子は堪へず口を開きて、マアマア御待ちなさいツてば、さう騒々しくなすつては申す事も申されませぬ。別に子細も何もないのですよ、あの方はもと私の兄の友達で兄よりはずつと前に大学を御卒業なされた文学士、甲田美郎さんといふ方ですよ、いふをもまたず鈴子のそれそれ私の申さぬ事か、やはり御存知なんでしやうとからかひかかるを君子は制し、それであなたも御存知なのと、再び談話の緒を引出されて、ハア知己《ちかづき》といふでもございませねど、兄の家へ時々いらつしやるものですから、お眼にかかつた事はありますの、ちよつと見るとにやけな風の方で、大変気取つてるやうに見へますけれど、あれでもつて大変学者ですとサ、兄なんぞはしよつちゆうさう申してますよ、一口に学士といつても、甲田さんなぞは確かに博士の価値があると、ネ、妙でしやう、ほら新聞の広告なんぞにも、文学士甲田美郎君著述ツてたくさん出てませうと次第に乗地になりかかるに、君子はニツと笑ひかけしがわざと真面目に、道理であなたにばかし、注目していらツしやると思ひましたよ。アラほんとにお人の悪い、さんざん人にいはせておいて、そんな事をおつしやるとは、――宜うございますよきっと覚へていらつしやいと、花子は額にて君子を睨《にら》め、白くなよやかなる手にて、軽く君子を打つ真似はしたれど、どこやらに嬉しさうなる素振りも見ゆるに、それそれその嬉しさうなお顔がいよいよ恠しいとまたも鈴子のからかひかかるに、よしよしお二人でたんとお意地めなさいまし、どうせ二人に一人ですから叶ひませんわ、だけど君子さんには私も申さねばならぬ事がありますよ、あなたは甲田さんを知らないとおつしやるけれど、甲田さんはあなたを知ツていらつしやいますよ、いつか私が御目にかかつた時、あなたの学校に竹村君子さんといふ方があるでしやうと仰しやつた事、兄も存知ておりまする、いづれその内篤と聞き合ひまして、この御返礼を致しませうと、なぶらるるやらなぶるやら、どちらへ団扇も上げられぬ、詞争ひそやし合ひ、あいも変はらぬ戯れ言も隔てぬ中の友垣は、よそに知られぬ楽なるべし。

   その二

 ここは処も嘘ならぬ本郷真砂町の何番地とやらむ、邸造りの小奇麗なる住居、主人は桜井直之輔とて、書生上りの若紳士、まだ角帽抜いで二年越とやら、某省傭の名義にての出仕、俸給は五本の指を超へまじけれど、家内は廿一二の美しき細君と、去年学校を卒業したりといふ妹の花子、下女のきよ[#「きよ」に傍点]に洋犬を合はせて、四人一匹の小勢なれば、暮し向きもさまで約しからず。若き人のみの寄合とて、時ならぬ笑ひ声に近隣の人を羨せぬ。
 常さへあるにまだ注連あかぬ正月早々とて、日毎の客来絶間なく、夜の更くる事も珍らしからねば、喜ぶは御用多き出入の酒屋と、御馳走に有付く洋犬となれど迷惑なは下女のきよ[#「きよ」に傍点]、これきよやあれきよやと、追遣はるる忙しさも、平常がらく[#「らく」に傍点]なだけにきよ[#「きよ」に傍点]もぼやかず和気は家内に充ち充ちたり。今日もおととひより三晩続けて来る、甲田が昼よりの居浸りなれば、大方また夜の更ける事であろと、きよは宵より台所の火鉢の傍にて、コクリコクリと居睡り始めぬ。
 奥には六畳の小坐敷をしめ切りての花遊び、主客と細君妹の四人が、四季の眺めに飽かぬといへば、風流げに聞こゆるなれど、これは殺風景なる輸贏《かちまけ》の沙汰もその身に取りては競争の面白ければにや、いづれも夜の更けしをも知らぬさまなり、花子は身にしむ寒さにふと心づき、おや、もう一時過ぎなのですよと誰にいふともなし独言ては直之輔は振向きて時計を見ちよつと気をかへて、一時が何だ何が恐ろしい、一時だつて二時だつて搆うものか、サアサアもつと遣るべし遣るべしヲイお菊(細君の名)時計を外してあちらへ持つてとけ、時計があるから軍気が沮喪《そそう》するんだとは飛んだ主人の馳走振なり。甲田はますます興に乗りて、しかりしかり大賛成花子さんは御自分が今勝てるもんだから、ここらで休戦しやうといふ野心を起こしたんでしやう。勝たらばみごと北京《ペキン》までお出なさい、台湾位で満足とは卑怯卑怯と、ますます戦を挑みければまたもやはづんで、落花狼籍たり。されど細君は連夜の疲れと、己れは未だ初心にて、強ておもしろくもあらぬを、主人役に拠なく席に列なり居たる事なれば、次第に睡気さして、今は席にも居堪へぬありさまを、見てとりたる甲田美郎、奥様非常にお疲れのやうですネ、どうかお搆いなくお休み下さい、僕は当夜の敵たる花子さんを滅さないでは、どうしても帰られないのです、あなたの分も私が引受けて、きつと敵をとつてお上げ申しませう。ホホホホ。これは恠しからん、お笑ひなさるんですか、では僕を弱卒と御覧なすつたか。いゑどう致しまして。ではどうか御安心なすつてお休み下さい、かういふづうづうしい客に、義理をお立なすつてはお躰が続きませぬとお世辞よく細君を退けぬ。直之輔はそれ以前より睡くて睡くて堪らねど、甲田の手前それをこらへて、ヤケ腹に傍に置たる麦酒をグイ飲して、ようやくに忍びいたるなれば、酔の廻るにつれて前後を忘れ、我にもあらずそこに倒れ伏せしかば、今は花子とさしになりぬ。それより後は甲田、花牌の方は手につかず、とかく花子にものいひたげなり。どうも大変寒くなつて来ましたよ、この火鉢の火を一ツに寄せて、御一所にあたりながら遣ろうじやありませんか、大勢の時とは違つて、離れてゐては手都合が悪い。なにお寒くない事があるもんですか、さアずつとお寄りなさい。次第に火鉢と共に身を花子の方に寄するを、花子は迷惑げに逡巡し居たりしが、いつしか隅の方に押遣られて、今はその脊の襖と磨れ合う位になりぬ。甲田は軽き口調にて、どうも淋しくつて困るです、妻が居ないものですから。花子は無言。妻を離縁してからかれこれもう一年になるんです、がかういふ疎末な男ですから、誰も世話のしてがないんです。花子はなほ無言。で誰かあなたの御友人に然るべき方がございますまいか、どうか一ツ御尽力を願いたいものですな、事々しく花子の顔を覗きて、それともこんなつまらなひ男には御世話が出来んとおつしやるのですかといひたる時花子がかすかに、あらまアどう致してといひたるを聞き付け、では御世話を下される思召なのですか、が単に世話をして遣らふとは御冷淡ですな、殊更あなたにお世話を願ふ意中を少しはとなほも語調を進めて巧みに花子の心を操縦せむとする時、ウーンといひて直之輔の寐返りたるに驚き甲田は笑ひに紛らしたりしが、その後いかの話にか成行けむ。軒端に騒ぐ颯々たる木枯らしの風と、次の間に残肴を争ふ鼠の足音は、時々その寂寞を破りたるのみ。

   その三

 お嬢様桜井様のお嬢様がいらつしやいましたよ、奥様へ申し上げましたら、あなたへ申し上げろとおつしやいますが、どちらへお通し申しませうと、下女の詞を半ば聞かず。ヲヤ桜井さんがいらしつたとへ、まアどうしやう嬉しいネー、私がお出迎へ申して来るから、お前は少しここを片付けて、そしてお母ア様へさう申し上げて、何かおいしいものをとつて来ておくれと君子は忙しげに出で行きたるが、年頃仲よき友達とて、坐に就く隙ももどかしげに玄関より語らひながら入来りぬ。
 マアよくねー、近頃はちよつともいらつしやらないから、どうなすつたかとお案じ申しててよ。さうたいへん御無沙汰を致しましたネー。つい家の事を手伝つたり何かしてるもんですから、出にくくツて、それはそうと今日はあなたに折入つて御相談申したい事があつて上つたのですよ。じやア御相談がなかつたらいらつしやらないの現金だ事ネー。相変はらず君子さんのお口悪には困つてよ、学校に居た時分から、いつでも意地の悪い事ばかりおつしやるんですもの……、ほんに学校といへば鈴子さんネー、あの方は去年の暮お医師さんの所へ御縁付なすつたのですが、たいへん御様子が変はりましたよ。どんなに。どんなにツてたいへんですよ、先方《さき》にはお父さんやおツ母さんがいらつしやる処なもんですから、あの快活な方が全くしけておしまひなすつてよ。そしてどこへも出られませんとサ、真実にネーかうしてお互に往来するのも、今の内の事ですネー、よそへ行つちやア自然御疎遠になりますからネと花子は少し物思はしげなり。君子は何心なくさうさうと聞き流して、あなた今日は夕方まで宜しいでしやう、ゆつくりしていらつしやいよ、久し振だから、ハアそれは宜しうございますが、――宜しいでしやうかお母さんに。宜しいともあなたのお噂は始終母にもしてますから、母もお友達中での仲好しとは承知してゐるのですもの、今に母も御
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