の上に肱かけぬ。君子はそれにて始めて会得したらむやうに、ヲヤあなたお加減がお悪いの、道理で今日は、何だか変だと思ひましたよ。それではまたゆつくり伺ふ事にして、今日はもうお暇といたしませう。実はネ、今日はあなたによく伺つた上で、御相談したい事があつて、上つたのですけれど、お加減が悪くてはいけません。どうぞ直ぐお横におなりなさいまし、いづれまたちかぢかに伺ひますからと口には他日を契れども、心はいつもの如く花子が引留めて、いいから話していらつしやいよといひくるるならむと思ひの外、これはいかなる事やらむ、花子は少しも留めむとはせず。ソーせつかくいらしつたのにネーと義理にも搆ひませぬとはいはず、我から立ちて玄関へ送り出るもそこそこに、君子が下駄穿き終りし頃には、はやバダバダと奥の方へ駈け込みし不思議に、君子は驚きて振り向きぬ。
甲田は最早時機到来、次回君子の家をおとづれたる時には、いかにもして好機を見出し、少しく我が意中を傾潟してみむ。おそらく掌中の玉たるを失はざらむ。しかして君子の意思一度我に向へるを。隠微の間にだも認むるを得なば、さてこそ全くしめたものなり。多日の焦思を癒すもはやちかちか。その上の手筈はかくかくと、君子を連れ出す場所さへに予定しつ、婦人の操を弄ぶを、この上なき能と心得る色の餓鬼こそ恐ろしき。折しも花子の方より、是非是非急に御目にかかり、御はなし申し度き事あれば、直ぐにも御返事下されたしとの郵書来りぬ。君子の事に※[#「てへん+勾」、第3水準1−84−72]《かか》らひてよりは、忘るるともなく忘れゐしなれど、もとよりこれもいな舟の、いなにはあらず思へるにて、捨小舟としたる心にもあらず。ただ流れゆく水性の、移る心に任せつつ、かしこの花ここの月よと浮かるるなれば、かくいはれてはこれもまた憎からず。さては忙中の一閑これもまた妙ならむ。かれといひこれといひ、いづれも絶世の佳人なるを、色男には誰がなると、独り顎《あご》を撫《な》でゐたり。
その七
春は花いざ見にごんせ東山、それは西なる京なれど、東の京の花もまた、東叡山にしくものなければ、弥生の春の花見時、雲か霞と見紛ふは、花のみならで人もまた尊き卑しき差別なく、老も若きも打ち連れて、衣香扇影ざんざめきたる花の下、汁も膾も桜とて、舌鼓うつものあれば、瓢の底を叩くもあり。花さへ酒の香に酔ひて、いとど色増す美しさに、下戸も団子を喰ひ飽きてうつとり眺めゐるもあり。心々に花莚さすがに広き山内も、人の頭に埋められぬ。
君子は今日の好天気に、久し振りの花見せばやと、珍しく父の思ひ立ちに、母とともに連られて、そこよここよ人に押されて見歩行きしが、父の大張込にて昼食は桜雲台の、八百膳といふ心搆へも、あまりの人出に思わくを替へ、と、鶯溪へ折れて温泉に浴しながら、ゆるゆるとうちくつろぐ事となりしに、ここはまた別世界の、ひつそりとしたるが君子の気に入り、父母がささ事の隙に、我は庭下駄はきてそこら見ありきしが、奥まりたる離れ座敷に人のけはひして、男女のささやき聞こへしかば、ハツと思ひて引返さむとしたりしかど、何となくその声音聞き覚へあるやうなれば、よしなき事とは思ひながら徒然なるままに聞き耳立てにしに、思ひきやこれは、甲田と花子の話し声ならむとは。
ほんとにあなたはひどい方ですよ、私に隠して君子さん許へなんか遊びにいらつしつて。なアに隠すも何もありやアしない、行つたつて不思議はないじやありませんか。ではなぜおつしやらないの。別にいふ必要がないんですもの。何必要のない事はありませんわ、君子さんといふ美しい方がいらつしやるのですもの、お父さんばツかしじやありませんから……。アハハハハこれは妙だ、君子さんが居たつていいじやありませんか、それがなぜいけないの。なぜつてそれは――それはあなたのお心に聞いてご覧なさいまし、君子さんが居るからいらつしやるのでしやう。これは大笑ひハハハハでは娘のある処へは、いつさい行ツちやア悪ひといふんですか。なアにさうじやアありません、別に何のおつもりもなければ。つもりツて何のつもりハテナ――。宜しいいくらでもおとぼけなさい、どうせ私は口不調法ですから君子さんには叶ひませんわ。フフフムではあなた妙に疑ぐつてるんですな、これは恠しからん、実に驚いた、さう気を廻しちやア身躰の毒ですよ、もつと大きく気をお持ちなさい。搆《かま》ひませんよ、どうせ私は捨ものですから、と花子はいつしか涙声になり、それで分りました、式を挙げるまでは誰にもいはないやうに、そして君子さんには決して僕の名前を告げちやアいけない、なるべくあんな生意気な人とは交際《つきあ》はないやうになさいなんて、甘く私をお瞞しなすつたのも、みんなそんな思召があつたからなんでしやうとこの声ははや打曇りてよくは聞こへず。甲田は背を撫でて介抱するやらむ、さらさらと衣の音して、宜しいそれでは早くあなたの御安心なさるやうに致しませう、つい財政を整へてからと思ふので、延引してたんですけれど、近い内に式を挙げませう、さうすれば御安心が出来るでしやうからと、嘘か誠かいと慰め顔にいへるも憎らしく汚らはしく、君子は最早聞くに得堪へず。悚然《しようぜん》として忍び足にそこを立去りぬ。
さて我が座敷へ戻りて、考ふれば考ふるほど、甲田憎く花子憐れなれど、幸にその身のみは過慮の空しからで、毒蛇の口を遁れたるを喜び、直ぐにも父母にこの一条打明けて、再び甲田を寄付けぬ事にして貰ひたしと、思ふ心ははやりしかど、更に思へばさては我友の為包ましき事をも、いはでかなふまじきをと思ひ返して、この一条は深く我が胸一ツに蔵め置きつ。翌日何気なきさまにて再び花子の方を訪ひたきよし母に乞ひ、新たに花子より聞得たる躰にもてなして、その約束の人はやはり甲田なりしよし告げたれど、父は君子の詞のあまりに前後矛盾せるを恠みてや、たやすくは信すべき気もなく、これは君子の甲田方へ嫁ぐを好まぬより、事を搆へて否まむとするならむと、さまざまにその不心得を諭したりしかど、君子ははや充分の証跡を押へたる上の事なれば、それとはいはぬ詞の内にも、自らなる力は籠りて、遂には父を動かしけむ。さらばともかく今一応甲田の素行を探らせてみやうといふ事になり。さすがにこの度は念入れて、それそれの手蔓求め出したればにや、甲田の内幕ことごとく曝露《ばくろ》して、思ひの外の事を聞くのみなれば、父もいたく打驚きて、さては今の人といふものは、身分のある人でも油断の出来ぬものじやなと、始めて我が眼の晦みゐしを悔ひ、それについても憎きは軽井、危く我が娘を芸者か妾同様にさるるところであつたと、かくなりては一轍なる老人気質、明日ともいはず直ぐに軽井を呼付けて、子細はいはねど覚へがあろうと、それが出入りとともに、甲田の来訪結婚の約をも併せて謝絶しぬ。
これにて君子も、我が身の上は安心したれど、深くも花子の身を憂ひ、しばしばそれとなく注意を与へしかど、花子は一度君子を疑ひたる上の事なれば、何事をも直ぐやかには聞かず。ひとへに君子の、その身の望みを充たさむとて、我を離間するなりとのみ思ひ僻み、果ては君子を疎んじ恨み、たまたま来り訪ふ事あるも、病に托して逢はぬまでになり行きしかば、君子はそれを情けなき限りに思へども、さてその上の術《てだて》もあらねば、やがては迷ひの雲霧も晴れて、真如の月を見る事もやと、心ならずも打過ぎぬ。
その翌年君子はある方へ嫁したりとか聞けど、花子は今も娘の名にて依然本郷なる兄の方にあり。甲田との人に知られぬ通ひ路絶へずや否、それはもとより知るよしなけれど、甲田の方には妻か妾か、花子にはあらぬ年若く美しき女の、新たに迎へられて侍れるがありとぞ。(『世界之日本』一八九七年三月)
底本:「紫琴全集 全一巻」草土文化
1983(昭和58)年5月10日第1刷発行
初出:「世界之日本」
1897(明治30)年3月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志、小林繁雄
校正:松永正敏
2004年9月20日作成
2005年11月2日修正
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