君の名)時計を外してあちらへ持つてとけ、時計があるから軍気が沮喪《そそう》するんだとは飛んだ主人の馳走振なり。甲田はますます興に乗りて、しかりしかり大賛成花子さんは御自分が今勝てるもんだから、ここらで休戦しやうといふ野心を起こしたんでしやう。勝たらばみごと北京《ペキン》までお出なさい、台湾位で満足とは卑怯卑怯と、ますます戦を挑みければまたもやはづんで、落花狼籍たり。されど細君は連夜の疲れと、己れは未だ初心にて、強ておもしろくもあらぬを、主人役に拠なく席に列なり居たる事なれば、次第に睡気さして、今は席にも居堪へぬありさまを、見てとりたる甲田美郎、奥様非常にお疲れのやうですネ、どうかお搆いなくお休み下さい、僕は当夜の敵たる花子さんを滅さないでは、どうしても帰られないのです、あなたの分も私が引受けて、きつと敵をとつてお上げ申しませう。ホホホホ。これは恠しからん、お笑ひなさるんですか、では僕を弱卒と御覧なすつたか。いゑどう致しまして。ではどうか御安心なすつてお休み下さい、かういふづうづうしい客に、義理をお立なすつてはお躰が続きませぬとお世辞よく細君を退けぬ。直之輔はそれ以前より睡くて睡くて堪らねど、甲田の手前それをこらへて、ヤケ腹に傍に置たる麦酒をグイ飲して、ようやくに忍びいたるなれば、酔の廻るにつれて前後を忘れ、我にもあらずそこに倒れ伏せしかば、今は花子とさしになりぬ。それより後は甲田、花牌の方は手につかず、とかく花子にものいひたげなり。どうも大変寒くなつて来ましたよ、この火鉢の火を一ツに寄せて、御一所にあたりながら遣ろうじやありませんか、大勢の時とは違つて、離れてゐては手都合が悪い。なにお寒くない事があるもんですか、さアずつとお寄りなさい。次第に火鉢と共に身を花子の方に寄するを、花子は迷惑げに逡巡し居たりしが、いつしか隅の方に押遣られて、今はその脊の襖と磨れ合う位になりぬ。甲田は軽き口調にて、どうも淋しくつて困るです、妻が居ないものですから。花子は無言。妻を離縁してからかれこれもう一年になるんです、がかういふ疎末な男ですから、誰も世話のしてがないんです。花子はなほ無言。で誰かあなたの御友人に然るべき方がございますまいか、どうか一ツ御尽力を願いたいものですな、事々しく花子の顔を覗きて、それともこんなつまらなひ男には御世話が出来んとおつしやるのですかといひたる時花子がかすか
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