「むし」に傍点]だつてしやうがないわ。兄さんなんぞについて行つたら、どこへ連れて行かれるか、知れやしないわ』
『なんだと。では貴様妾に遣られても、搆わんか』
『仕方がなけりやあなりますわ』
『うぬ、父上の顔汚しツ』
怒りに任せて蹴り仆すを、待ちかねておあかのさし出。
『さあさあもつと蹴つておくれ。お徳を蹴るのは私へ面当、さあさあたんと蹴られませう』
その七
紅塵万丈の都門の中にも、武蔵野の俤のこる四ツ谷練兵場、兵隊屋敷をずつと離れて、権田原に近き草叢の中に、露宿《のじゆく》せし一人の書生。寐ぬに明けぬと告渡る鳥より先に起き出て、びつしよりと湿りたる襟元を、気味悪さうに掻き合せながら。
『ああつまらない、実に残念だ。世間は広く人間は多きも、恐らく至る所に逆遇を蒙る、僕の如き者も珍しいだらう。昨霄《ゆうべ》飯田町を飛出して、二里ばかりの道を夢中に、青山の知己《しるべ》まで便《たよ》つて行けば、彼奴《きやつ》めたいがい知れとる事に、泊まつて行けともいはないんだ。頼むのも残念だからと思つて、露宿《のじゆく》をやつてみたが、やつぱりあんまりいい心持はしないわ。どうしても人間の居る所
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