、通りを除けし格子造り、表は三間奥行も、これに合《かな》ひたる小住居ながら。伊予簾の内や床しき爪弾の音に、涼みながら散歩する人の足を止めて覗へば。奥深からぬ縁側に、涼しさの翠も滴る釣しのぶ、これと並びては岐阜提灯の影、ほの暗けれど。くつきり[#「くつきり」に傍点]と際立ちし襟もとの、白さは隠れぬ四十女、後姿のどこやらに、それ者の果ての見へ透きて、ただは置かれぬ代物と、首傾けて過ぎ行くを。向ふ側の床机に集ひし町内の、若い衆達の笑止がり。いかに青葉好ましき夏なればとて、葉桜に魂奪はれて、傍《かたえ》の初花に心注かぬとは、さてもそそくさき男かな。その母よりも美しき、その娘にお気は注かぬのか。とはまたきつい御深切、通りかかりの人にまで、あの娘を風聴したきほどの、深切があるならば、とてもの事に母子の素生、それはお調べ届きしか。さりとては野暮な沙汰、男気なしの女暮しで、三日に挙げず、料理の御用、正宗の明瓶を屑屋があてに来るといへば、いはずと知れた商売柄、知れぬは弗箱《どるばこ》の在所《ありか》ばかり。さあその弗箱の在所が己れは気にかかる。かかつたところで仕方なし、こればかりは政府《おかみ》でさへも、所得税は徴収せぬに、要らぬ詮索止めにせいと、さすが差配の息子殿は真面目なり。
 折から来かかる一人の男、安価《やす》香水の香にぷむと。先払はせて、びらり[#「びらり」に傍点]と見へし薄羽織、格子戸明けて這入ると同時に、三味の音色はぱたりと止まりぬ。
『おや中井さんお出でかえ、さあずつとお上り』
と榛原《ハイバラ》の団扇投げ与ふるは、かの四十女なり。
『へい奥様、お嬢様』
と中井はどこまでも、うやうやしく挨拶して。
『いやどうも厳しいお暑さでございます、せつせつと歩行《あるい》て参つたもんですから』
と言ひ訳して、ぱたぱたと袖口より風を入れ、厭味たつぷりの絹|手巾《はんけち》にて滑らかなる額を押拭ふは、いづれどこやらの後家様で喰ふ、雑業も入込みし男と見へたり。
『これでさつぱり致しました。しかしお邸はたいへんお風通しが宜しいやうで』
と、事新しくそこら見廻すを、年増は軽くホホと受けて。
『中井さんお邸なんて、そんな事はよしておくれ。真実に今の躰裁では赤面するからね。これでも住居には違ひないんだけれど』
『いやごもつともでござります』
と、ここほろり[#「ほろり」に傍点]となりしといふ見得にて、わざと声の調子を沈ませ。
『実に浮世でござりますな。これでもと申しては、失礼でございますが、私どもにとりましては、結構な住居でございますが、さう思召すも、御無理ではございません。あつは世が世でいらつしやいましたならば』
といふに年増は掌《て》を振りて
『もうもう、そんな時代な台辞《せりふ》で、私を泣かせておくれでない。それよりかお前この節は、たいそう景気がよいさうだから、もう幾度か歌舞伎座へ行つたんだらう。そんな話でもしておくれ。くさくさしていけないから』
『ヘヘヘヘこれは大失策《おほしくじり》、大失礼を致しました。ついおいとしいおいとしいが先に立つもんでございますから。肝要《かんじん》のお話が後になつて、禁句が先へ出違ひと、申すはこれも今夕の禁句ホイ』
と掌《たなごころ》にて我が額を叩き、可笑味《おかしみ》たくさんの身振にて、ずつと膝を進ませ。
『実はその少し耳よりなお話で伺つたのでございますがやはりおち[#「おち」に傍点]は歌舞伎座と申す訳。ヘヘヘ失礼ながら奥様お嬢様には、まだどちらへも御縁はお極りあそばしませぬか』
 こなたも耳よりなる話に、年増もぐつと乗出して、思ひ出したやうに手を叩き、氷と、そして何かお肴をと急に小女にいひ付くるも、現金なる主人振なり。中井はしめたと腰据えて。
『実はその何でございます。名前は少し申し上げかねますが、さる新華族様の若殿が』
『ふむむむむむ』
と冒頭第一、気受けよき様子に、中井はいよいよ乗地になり
『実はその若殿様と申すは、御養子様なんでいらつしやいますが。その奥方のお姫様と申すが、まだ十五のおぼこ気ばかりではなく。一躰にちと訳のある御|性質《たち》で、とても奥様のお勤めが、お出来あそばさぬと申すところから。そこは通つた大殿様、新華族様だけにお呑込みも早く。乃公《おれ》に遠慮は要らぬから、奥の代はりになる者を、傍《そば》近く召使ふがよいと。さばけた仰せに若殿様も、御養子のお気兼なく、お心のままと申す訳になつたのでございますが。さてさうなつて見ますると若殿様も、うつかりしたものをお邸へ、お呼びとりになると申す訳に、参りませぬと申すのもさういふ訳でございますから、奥方は表向きのお装飾《かざり》物ばかり、内実はそのお方が、御同族方への御交際向きから、下々への行渡り、奥様同様のおきりもりを、あそばさねばならぬ訳でございますから
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