なぜツてね、別に躰した訳もないんだがね、旦那様があれの親にお世話、いゑ何ね、世話になんぞおなりあそばしやあしないんだけれど、同じ国でお知己《ちかづき》であつたもんだから、それでよんどころなく、めんどうを見ておやりあそばすのさ』
『へー、あんな人にでも親がございますか』
『ホホホホ可笑《おかし》な三だよ、誰だつてお前親はあらうじやないか』
『へー、でもあなたついしか、親の事なんぞ、申した事がございませんもの。もつとも私達に話すなんて、そんな優しい人じやございませんけれど』
『そりやあその筈さ、あつてないやうなものだから』
『へー、じやああんな人ですから、親だつても、寄せ付けないんでございますか』
『何ね、さうじやないんだよ、父親は監獄に這入つてるんだもの』
『おやおやおや、奥様、じやあ盗人の子でございますの。まあ驚きましたねえ。道理で』
と、三は呆るる事|半※[#「日+向」、第3水準1−85−25]《はんとき》ばかり、何をか自問自答の末、急にしよげ[#「しよげ」に傍点]たる調子にて。
『奥様つまらない事を致しましたねえ私の銭入も、全くあの人に、取られたのでございますねえ』
『え、銭入ツて何』
『はいこないだ失くなしました』
『ふむむむ、いつか通りで買つて来たつて、見せたのかえ』
『へい、それにはした[#「はした」に傍点]を少々ばかし、入れておいたのでございますが、それがさつぱりこないだから、知れないんでございますもの』
『だつてお前、それはこのあいだ遺失《おと》したといつたじやないか』
『へい、遺失したんだとあきらめておりますのでございますが、さう承つて見ますると、少し変でございますよ。どうもあなた、遺失した覚えがございませんのですもの』
この三いつも遺失したものを、心に覚えてすると見へたり。奥様もやうやく釣り込まれたまひ。
『さうそりやあ何ともいへないよ。まあよく考へて御覧、まさかとは思ふんだけれど、いよいよとなれば調べなければならないから。何しろあれの親も、盗人じやあないが、お金を遣ひ込んで這入つたんだといふからね』
折しも次間《つぎ》に人の気配、奥様誰ぞと声かけたまへば、大村でござるといふ声の、噛付くやうに聞こへしにぞ、さてはと奥様お奥へ逃入りたまふに、三もとつかは[#「とつかは」に傍点]流しもとへ退《まか》らむとしての出合頭、ぬつと入来る一郎に突当られてアイタタタタ。馬鹿奴ツ、眼を明いて見ろの一声に、当られ損の叱られ徳、疵もつ足の痛さにつけても、三はいよいよ抵抗の気を昂めぬ。
その三
それよりは一郎三との衝突日に烈しきを、あはれ調停の任に当りたまふべき奥方の。何事ぞいつも三の神輿をかつぎ出されたまひ、三が肩には奥様の、光明輝く悲しさに。一郎は毎度泣寐入の、夜毎の夢にも、かの陰口のみは忘れかね。己れやれよくもこの一郎を、盗み根性ありとまで評せしよな。他事はともあれこれのみはと、半夜の衾を蹴つて起き出る、力は山を抜くべきも、ぬきさしならぬ食客の身の悲しさは、理非を旦那どのの前に争はむ力の抜けて。おのれ馬鹿女め、今に見よと、両の拳には、一心に青雲を握り詰むれど、これとて雲を握《つか》む話と、嘲られてはそれまでと、恥を忍び垢を含む一郎が無念無言を。覚えあればぞあの無言、情の剛きあの人に、似ぬ温和《おとな》しさはてつきり[#「てつきり」に傍点]さうと、いよいよ乗ずる三の蔭口、車夫の力松、小間使のおせかまで、異な眼つきにて我を見る、返す返すの心外さに、もう堪忍がと立上る、その足許には奥様の合槌、打つて出られぬ口惜しさの、積り積りて的の外れ。かくまで我を痛罵する、あの蔭口を、猪飼の知らぬ筈はなし。知らずばかれこれ不明、不明にあらずばこれ不仁、いづれに我が先生と仰ぐべき器にあらずと。一念ここに僻みてよりは、斜めに見る眼の観察は狂ひ。その以前より猪飼が仕向け、その意を得ずとも思はれて、今は猪飼に対する、敬意を欠くにも至りしにぞ。さらでもかねて奥の訴訟、なるほどここをいひをつたと、証拠を竢つて判断する、旦那殿は商売柄。一号証より、二号証、三が詞も参考の、一ツに供するやうになりては、また一郎を、善しと思はぬ気色見ゆるにぞ。負けじ魂の一郎が口惜しさ。この人までもさあらむには、何の青雲ここにのみ日は照らじ。高山大嶽至る所、我が攀ぢ登るに任すにあらずや。百難を排し千艱を衝いても、やがては天下に濶歩すべき、この大健児の、首途《かどで》を見よやといはぬばかり。敵手《あいて》に取つて不足なき、敵には背後《うしろ》の見せ易く、奥様と三に忍びし一郎の、旦那殿には忍び得で。溝水《どぶ》も泡立つ七月の天、およそものその平を得ざれば、なるほど音高き日和下駄響かせて、我からそこを追出しは、とつて十九の血性漢なりし。
その四
飯田町何丁目の
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