人の方より主人の相場入るるを、奥様夢にも知りたまはば、さても東京は恐ろしい所と、この一ツでも呆れたまふべけれど、全く御存じなき内が、田舎の香失せぬ、有難きところなるべし。
されば上は玄関番の書生より、下は台所の斑に至るまで、勤めやうでは、勤めにくくもなき筈を。いかはしけむ、書生の一人、大村一郎といふ無骨もの。これのみはとかく奥様の御意に召さず、またしてもお小言戴くを三の笑止がり。あの奥様は威張らせてさへ置けば御機嫌よきに、逆らひなさるから、お前様は損だよ。手よりは口の方上手に働かすが、このお邸の肝要ぞやと、六韜三略《りくとうさんりやく》無束脩《むそくしゆう》に皆伝せし深切を、一郎は有難しとも一礼せず。それは婦女子のすべき事だ、僕なんぞにそんな事は出来ぬ、またする気もない。有りのままでお気に入らずばそれまでだ、お前なんぞの指図は受けぬと、強情ものの一徹に、いふて除けしを、むつと癪に障え。それよりは矛を倒《さかし》まにして、とかく一郎の事を悪しざまにいふ、曰く因縁御存じなき奥方は、これをも三が忠勤の一ツには数へたまひながら、相変らず襟一掛をとのお気は注かぬに、どれもこれもと、三はおのれ一人、江戸ツ児なるを口惜しがりぬ。
奥様は今がた旦那どの、玄関に見送らせたまひ。書斎のお掃除、これのみは、小間使の手にも掛けず、御自分のもちになりたるを片付けたまひ。さも大仕事したる跡なるかのやうに、ぺたり[#「ぺたり」に傍点]仲の間の火鉢の傍によりかかりたまひ。ああ草臥《くたび》れたと長煙管お手にしたまふ。この所作はまだちと似合ひあそばさぬやうなり。
三は来たなと、今まで板場に骨休めし身を、急に起こして立働く、流しもとの忙しさ、奥様殊勝と見遣りたまひ。
『お前もちつとお休みな、今日は横浜へお出になつたのだから、夕方でなくツちやあ、お帰りはあるまいよ。お昼食は要らないのだから、まあ安心さ』
三はぬらしたばかりの手を、大形に拭き拭き
『さやうでいらつしやいますか、道理でいつもより、お早くお出掛だと存じましたよ、じやあ今日はお留守事に、お洗濯でもいたしますか』
『ああどうせして貰ひたいんだけれど、まあ少し位後でもいいよ。どふもお天気が変だから』
いひながら、お庭の方を見遣りたまひ、旦那どののお机の上に、視線を触れて。
『おおさうさう忘れてゐた、郵便を出させろとおつしやつたんだに。大村は
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