申しまして失礼を致しました。わたしもただ今では糸屋町の、近江屋といふ家に居りますさかい、お夏さんにもちとお遊びにお出やすやうに。
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 通り一遍の世辞をいひたるなれど、庄太郎は例の心より、たちまちこれが気にかかり。
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 今の人はえらひええ男やな、お前心易いと見えるな。
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 疑問の前触《まへぶれ》は早くも掲げられたれど、お糸は未だ心付かず。
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 ヘイあのお方は、わたしの小学校へ行てました時分の友達の兄さんで、あの人もやつぱりおんなし学校へ行てはつたのどす。
 フムそれだけか。
 ヘイさうどす。
 それにしてはお前の顔がをかしかつたぜ。それ位の事であんな赤い顔をしたのか、妙な笑ひやうをしてたやないか。
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 あまりの事に、お糸も少しムツとして、
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 別に赤い顔をしたという訳もおへんやないか、そらあんた誰でも女子といふものは、人にものをいふ時には、ちつとは笑顔をしていふものどすがな。別にあの人に限つて笑ろうたのやおへん。
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 素気なくいひ放ちたるに、それより庄太郎の気色常ならず、せきかくの花見もそこそこにして、帰りは合乗車といふは名のみ。面白からぬ心々を載せたればや、とかくに二人が擦れ合ふのみにて口も利かねば、たまたまの事にまた旦那が箱やを起こして、ほんに陰気な事やつたと、下女も丁稚も小言《つぶや》きぬ。

 その翌日も日一日庄太郎は、絶えてお糸にものいはず、されどその人に在りては、かかる事珍しきにもあらねば、また旦那の病が起こりしとのみ思ひて、お糸も深く心にとめず。まさかに昨日の幸之介一条、心にかかりてとまでは推せねど、ただ危きものに触るやうにして、やうやくに日を暮せしに、やがて寝に就かむとする十時頃に、
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 ヘイ郵便が参りました。
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と上《か》み女の梅の持ち来りしを、庄太郎は手に取りて、見て見ぬ振り、無言にお糸の方へ投げ遣りぬ。お糸は近江屋様にてお糸様とあるに、我のなりとうなづきて開き見れば、きのう逢ひし幸之介の妹なつといふより寄せしなり。たださらさらと書き流して何の用もなければ、きのう兄より御噂承りて、あまりの御なつかしさにとあるのみ。されど絶えて久しき友よりの手紙なれば、お糸は我知らず繰返して眺め居たるを、先刻より恐ろしき眼にてじろじろと見ゐたる庄太郎だしぬけに、
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 お糸それはどこからの手紙じや。
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 きのふ逢ひました人の妹よりといはむは、いとも易き事ながら、前夜より口を利かざりし人の、すさましく問ふ気色さへあるに、ふと今日の不機嫌もその人の事にはあらぬかと心付きては、何となく隠したる方安全らしく思はれもして、
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 ヘイ友達の処からの手紙でござりまする。
 フム昨日の人の妹か。
 いいえ。
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 つがひたる一矢は、はや先方の胸を刺したり、かかる事に注意深き庄太郎の、いかでかは昨日夏と聞きし名の、その封筒に記されたるを見|遁《のが》すべき。
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 フムそれに違ひないか。
 ヘイほんまでござります。
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 勢ひ確答を与へざるを得ずなりしお糸、庄太郎はクワツと怒りて立上り、
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 おのれ夫に隠し立するなツ。
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 いふより早し肩先てうと蹴倒し、詫ぶる詞は耳にもかけず、力に任せて打擲《ちやうちやく》しつ、
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 お前のやうな不貞なものは、ちよつとも家に置く事は出来ぬ。たつた今出て行けツ。
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 血相も変はりて、逆上したるらしき庄太郎、これもこなたの常なれど、不貞の名を負はされては、お糸も僻《くせ》と知りつつだまつてゐられず。一生懸命にて夫の拳の下を潜りながら、
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 ど、どうぞその手紙を見ておくれやす。け、決して悪いつもりで隠したのではござりませぬ。あんまりあんたの、お疑ひが怖さに……
 ナ何というた、おれが疑深ひ――おのれツ人にあくたい吐《つ》きおるな。
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 怒りはますます急になり、今は太き火箸を手にしての乱打。
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 サア出て行かぬか、何出る事は出来ぬ、出ぬとて出さずに置くものか。
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 勢ひすさまじく飛びかかり、十畳の間をかなたこなたへ追ひ廻す騒ぎも、広き家とて、始めは台所のものも気付かざりしが、あまりの物音にやうやく駈け来りたる下女三人、
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 マ……旦那さんお待ちやす、お糸さん早うお断りおいひやす、どうぞ旦那さん旦那さん。
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 おづおづとして止めてゐたれど、庄太郎の暴力とても女の力に及ばざれば、側杖喰はむ恐ろしさに、下女等は店へ駈け付けて、若い者呼びさましたれど、これは日頃覚えあれば出も来ず、男の顔見せてはかへつて主人の機嫌損はむと、いづれも寐た振して起きも来ず。お糸も今はその身の危さに、前後を顧ふに遑《いとま》あらず、我を忘れて表の方に飛出したるを見て、庄太郎は我手づからくわんぬきを※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]し、
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 誰でも彼でも、断りなしにお糸を内へ入れたものには、きつとそれだけの仕置をするぞ。
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 わめき散らして立去りたる後は、家内|寂然《ひつそ》として物音もせず。多くの男女も日頃の主人の気質を知ればか、これも急に開けに来る様子はなきにぞ、お糸はしばし悄然として、その軒下に佇み居たりしが、折悪しくも巡行の査公、通りかかりてジロジロとその顔を眺め、幾度か角燈の火をこなたに向けて、ピカリピカリとお糸の姿を照らしながら過ぎゆくも心苦しく、自然咎められては恥の恥と、行くともなし二足三足歩みかけしが、さてどこへと指さむ方はなし。媒妁人の家は遠きにあらねど、これは媒妁とはいへ他人なれば、恥を曝すも心苦し。里方へ帰りては事むつかしくなりもやせむ、とてもこのまま家へは入れらるまじき身を――お、それよそれよ程近き叔父様の家、そこまでゆきてともかくも身を頼まむと、平常着《ふだんぎ》のまましかも夜陰に、叩き苦しき戸を叩きぬ。
 叔父も一時は驚きしが、若きものには有うちの事とて取合はず。
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 ハ……出て行けといふのは男の癖やがな、それを正直に出るといふのがお前の間違へじや。そのままあやまつて寝さへすれば、翌朝《あす》は機嫌が直るといふものじや。それを下手に人が口を入れると、何でもない喧嘩に花が咲いて、かへつて事がめんどうになるものじや。私が挨拶してやるのは何でもないが、それよりはお前が一人でいんだ方が、何事なしに納まるやろ。あんまり仲が好過ぎると、得て喧嘩が出来るさかい、仲好しもゑい加減にしとくがよいじやハ……
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 事もなげにいはれてみれば、泣顔見するも恥づかしけれど、お糸は更にさる無造作なる事とは思はず。さはいへこれこれでと打明けむは、いかに叔父甥の間柄とはいへ、夫の恥辱《はぢ》となる事と思へばそれもいはれず。ただ責めを己れ一身に帰して、
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 なるほど承つてみますれば、そんなものでござりまするか存じませぬが、何分にも今晩のうちの人の立腹は尋常《ひととほり》の事ではござりませぬ。決して決して喧嘩といふではございませぬ、何事も不調法なる私うちの人の立腹も無理はござりませぬが、それはどこまでも私があやまりますさかい、どうぞ叔父さん御慈悲に御挨拶下されまして。
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と声を顫わせ頼むけしき、容易の事とも思はれねば、叔父もやうやく納得して、
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 それでは私が送つてやろ、おおもう十二時は過ぎたのや。家で一晩位泊めてもよいのやけど、なんぼ甥の嫁でも人の女房、断りなしに泊めても悪かろ、そんなら今から。
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 煙草入腰に※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]して立上るに、お糸もやうやく力を得て、どうぞこれで済めばよいがと、危ぶみながら随ひ行きぬ。
 さて叔父のおとなひに、一も二もなく門の戸は開かれたれど、さぞ叔父様のお骨の折れる事であろと、お糸は我が家ながら閾《しきゐ》も高くおづおづと伯父の背後《うしろ》に隠れゐたるに、案じるよりは生むが易く、庄太郎は前刻《せんこく》の気色どこへやら、身に覚えなきもののやうなる顔付にて、
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 これはこれは伯父様どうも夜中に恐れ入りまする、お糸のあはうめ[#「あはうめ」に傍点]が正直に、あんたとこまで行きましたか。ほんまに仕方のない奴でござりまする。ほんの一と口叱つただけの事で。
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 一言を労するにも及ばぬ仕儀に、叔父はそれ見た事かといはぬばかり、お糸の方を顧みて苦き笑ひを含みながら、
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 おおかたそんな事やろと思うたのやけど、お糸が泣いて頼むものやさかい、よんどころなくついて来たのじや。――がマア痴話もよい加減にして人にまで相伴させぬがよい。
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 日頃庄太郎の仕向けを、快からず思へるままに、少しは冷評をも加へて、苦々しげに立去りぬ。跡にはお糸叔父の手前は面目なけれど、まづ夫の機嫌思ひの外なりしを何よりの事と喜びしに、これはただ叔父の手前時の間の変相なりしと見えて、叔父が帰りし後はまたジリジリと責めかけて、
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 なぜお前は、日頃心易くもない叔父さんの許へ逃げて行く気になつたのじや。ただしおれの留守に叔父さんと心易くした事があつてか。
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 さすがに再び手|暴《あら》き事はせねど、火の手は叔父の方へ移りて、夜一夜いぢり通されぬ。

   下

 この事ありてより後は庄太郎、仮初の外出にもお糸への注意いつそう厳しく、留守の間の男の来りし事はなきや、お糸宛の郵便どこよりも来らざりしやと、店の者に聞き下女に聞き、なほそれにても飽き足らず、大人はお糸に啗《くは》されて、我に偽る恐れありと、長吉お駒を無二の探偵として、すこし心を休めゐしに、あひにくにも一日《あるひ》の事、庄太郎の留守にお糸の里方より、車を以てのわざと使ひ、母親急病に罹りたれば、直ちにこの車にてとの事なり。お糸は日頃の夫の気質、親の病気とはいへ留守中に立ち出ては悪かりなむと、しばしはためらひゐたりしかど、待つほど夫の帰りは遅く、いかにしても堪へ難ければ、よし我上はともかくもならばなれ、親の死目に逢はぬ憾《うらみ》は、一生償ひ難からむと、日頃の温和には似ず、男々しくも思ひ定めて、夫への詫びはくれぐれも下女にいひのこし、心も空に飛行きぬ。その跡へ帰り来りたる庄太郎、お糸の見えぬに不審たてて、
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 これお糸どうしたのじやどこに居るのじや、亭主の帰りを出迎へぬといふ不都合な事があるものか。
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 見当り次第叱り付けむの権幕恐ろしく、三人の下女は互ひに相譲りたる末遂に年若なるが突き出されて、
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 ヘイアノ先ほどお里からお迎ひが見えまして。
 どこから迎へが来たツ。
 お母アさんの御病気やとおつしやつて。
 フム苦しい時には親を出せじや、親の病気が一番エエいひ草じや。それでお糸は出て行たのか。
 ヘイお留守中で済みませんけれど、何分急病といふ事どすさかい、充分お断りをいふといてくれとおいひやして。
 ソソンそれて何ぞ風ろ敷包でも持て行たか。
 イイエ何にもツイお羽織だけを召しかへやして。
 ハテナ。
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 考ふる隙に、下女は龍の顎《あぎと》を逃れ出でたる心地、台所の方へ足早に下りつつ、三人一時に首を延ばして、主人の容子いかがとこはごはに窺ひゐる様子なり
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