て行こうといふ矢先じや。お前の怒つた顔を見て行くのも、あんまりどつとせんさかい、ちと笑ろて見せいな。
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 同時に算盤は、無情にも傍《わき》へ突遣られたり。
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 コーツとなア、その代はり土産は何を買うて来か知らん、二ツ井戸のおこしはお前が好きやけど、○万の蒲鉾はわしも喰べたいさかいな。
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 さも大事件らしくしばし考へ込みしが、庄太郎はポンと手を叩きて、
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 いいわ、負けといてやろ、おこしにして来るさかいな。ひよつと夕飯までに帰らなんだら、少し御飯《ごぜん》を扣《ひか》へて喰べとくがよい、腹のすいてる方がおいしいさかいな。
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 いかなる場合にも、勘定を忘れぬ男なりけり。お糸もかう機嫌を取られてみれば、さすが我が亭主だけに、厭はしき人ながらも気の毒になりて、やうやく重き唇を開き、
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 宜しうござります、何んにも御心配おしやすな、あんたに御心配かけるやうな事はしまへんさかい、安心してゆつくりと行ておいでやす。
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 大張込みにいひたるつもりなれど、そのゆつくりといひしが気にかかりて、庄太郎はむツとした顔付、
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 何じやゆつくりと行て来いといふのか。
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 俄然軟風の天気変はりて、今にも霹靂一声頭上に落ちかからむ気色にて、庄太郎は猜疑の眼輝かせしかど、例の事とて、お糸は早くも推しけむ、につこりと笑ひを作りて、
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 いいえ、なアゆつくりというたのはそりやあなたのお心の事、おからだはどこまでもお早う帰つて貰ひまへんと、私も心配どすさかい。
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 庄太郎はとみに破顔一番せむとしたりしにぞ、白き歯を見せてはならぬところと、わざと渋面、
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 さうなうてはかなはぬ筈ぢや、亭主の留守を喜ぶやうな女房では、末始終が案じられる。それはマアそれでよいが、また何にもいふ事はなかつたかしらん。
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 考へ果てしなき折しも、店の方にて丁稚の長吉、待ちあぐみての大欠伸、
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 旦那はまアいつ大阪へ行かはるのやろ、人を早う早うと起こしといて、今時分までかかてはるのやがな、おつつけ豆腐屋の来る時分やのに。
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 庄太郎聞き付けてくわつ[#「くわつ」に傍点]と怒りを移し、
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 これ長吉ちよつと来い。
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 我が前へ坐らせて、
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 お前は今何をいうてたのぢや。いつ行こと行こまいと、こちの勝手じや、お前の構ひにはならぬこツちや。そんな事いうてる手間で隣家へ行て、もう何時でござりますると聞いて来い。ついでに大阪へ行く汽車はいつ出ますと、それも忘れまいぞ。
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 叱り飛ばして出しやり、もと柱時計の掛けありし鴨居の方を見て独言のやうに、
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 ああやはり時計がないと不自由ななア、要らぬものは売つて金にしとく方が、利がついてよいと思うて、何やかや売つた時に一所に売つてしまうたが、こんな時にはやつぱり不自由なわい。でも隣家は内よりもしんしよ[#「しんしよ」に傍点]が悪い僻に、生意気に時計を掛けてよるさかい、聞きにさへやれば、内に在るのも同じこツちや。あほな奴なア、七八円の金を寐さしといて、人の役に立ててよる。
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 これにも女房無言なれば、また不機嫌なりしところへ、長吉帰り来りて、九時三十分といふ報告に、さうさうはゆつくりと構へて居られず、
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 ええか、今いうただけの事は覚えてるな。
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 念の上にも念を推してやうやくに立上り、辻車の安価なるがある処までと長吉を伴につれ、持たせたるささやかなる風呂敷包の中には、昼餉《ひるげ》の弁当もありと見ゆ。心残れる我家の軒を、見返りがちに出行きたり。

 しばらくありて丁稚の長吉、門の戸ガラリ、
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 ヘイ番頭さんただ今、
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 いひ訳ばかり頭を下げぬ。名は番頭なれどこれも白鼠とまではゆかぬ新参、長吉の顔見てニヤリと笑ひ、
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 安価《やす》い車があつたと見えて、今日はどゑろう早かつたな。またお前何やら、大まい五厘ほどの駄賃貰ろて、お糸さんの探偵いひ付けられて来たのやろ。そんな不正《いが》んだ金は番頭さんが取上げるさかい、キリキリここへ出せ出せ。
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 おだてかかれば、上を見習ふ若い者二三人、中にも気軽の三太郎といふが、
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 これ長吉ツどん、うつかり番頭さんに口を辷らすまいぞ。極内でわしに聞かしとくれ。おほかた旦那はこういうてはつたやろ。店の者の中でも、この三太郎は一番色白でええ男やさかい、あれにはキツト気をつけいとナそれ。
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 アハ……と笑い転げる長吉をまた一人が捉へて、
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 なんのそんな事があろぞい。三太郎はあんな男やさかい気遣ひはない、向ふが惚れてもお糸が惚れぬ。それよりはこの惣七。あれがどうも案じられると、いははつたやろ。
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 いふ尾についてまた一人が、
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 三太郎ツどんも惣七どんも、その御面相で自惚《うぬぼ》れるさかい困るわい。お糸さんの相手になりそなのは、わしの外にはない筈じやがな、ナ、ナ、これ長吉ツどんナ旦那の眼鏡もそうやろがな。
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 銘々少し思ふふしありと見えて、冗談半分真顔半分で問ひかかるをかしさを、長吉は堪《こら》へて、
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 へいへいただ今申します、旦那のいははりましたのには、店の奴等は三太郎といひ、惣七十蔵、その他のものに至るまで……
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といひかければ、早銘々得意になりて、我こそその心配の焦点ならめと、一刻も早くその後を聞きたげなり。長吉は逃支度しながら声色めかして、
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 いづれを見ても山家育ち、身代はりに立つ面はない、長吉心配するに及ばぬといわはりました。
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といひ捨てて、己れ大人を馬鹿にしたなと、三人が立ちかかりし時は長吉の影は、はや裏口の戸に隠れたり。跡にはどつと大笑ひ、中にも番頭の声として、
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 やはりお糸さんが別品《べつぴん》やさかい、皆なが気にしてると見えるな。旦那の心配も無理はない。死んだ先妻のお勝さんといふは、よほど不別品やつたといふ事やけど、それでも気にしてゐやはつたといふこツちやさかいな。アハ……番頭さんもお糸さんを、別品やというて誉めてる癖に、我が事は棚へ上げとかはるさかいをかしいわい。
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 同士討ちの声がやがやと喧《かまびす》し。かかる騒ぎも広やかなる家の奥の方へは聞こえず。お糸は夫を出しやりて後は、窮屈を奥の一間に限られたれば、飯時の外は台所へも出られぬ身の、一人思ひに沈める折ふし、先妻の子のお駒といひて、今年七歳なるが学校より帰り来り、
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 ヘイお母アさんただ今。
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 おとなしく手をつかゆるを、お糸は見て淋しげなる笑ひを漏らし、
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 おおえらい早かつたなア、もうお昼上りかへ。
 ヘイお昼どす。
 そんなら松にさういうて、早うお飯喰べさせてお貰ひ、お母アさんも今行くさかい。
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 お駒はものいひたげに、もぢもぢとしてやがて、
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 あのお母アさん、焼餅たらいふものおくれやはんか。
 エ、焼餅、焼餅といふものではないえ、女子《おなご》の子はお焼きといふものどすへ。けどそれは今内にないさかい、また今度買うて上げますわ。
 いいえ私は知つてます、お焼きがあると皆ンながいわはりました。
 誰れがへ。
 学校で隣のお竹さんや、向ひのお梅さんが、あんたとこにはお父ツさんが、毎日焼いてはるさかい、たんと焼餅があるやろ、いんだらお母アはんにお貰ひて。
 ええそんな事をかへ。
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 お糸は口惜しく情なく、さては夫の嫉妬《りんき》深き事、疾《と》くより近所の噂にも立ちて、親の話小耳に挾みし子供等の、口より口に伝はりて、現在父の悪口とも知らぬ子供の、よそでなぶられ笑はるるも、誰が心のなす業ぞや。さはいへ夫を恨むは女の道でなし、我に浮きたる心微塵もなけれど、疑はるるはこの身の不徳、ああ何となる身の果てぞと、思案に暮るるをお駒は知らず。継子根性とて、あるものを惜しみて、母のくれぬものとや思ひ違へけむ、もうもう何にもいりませぬといはぬばかり、涙を含み口尖らせ、台所の方へ走りゆく後姿いぢらしく、お糸は追ひかけて、外のものを与へ、やうやくに機嫌とり直しぬ。
 五時といふに庄太郎は帰りつ。約束の土産の外に、お糸が日頃重宝がる、小椋屋のびんつけ[#「びんつけ」に傍点]さへ買ひ添へて、いつになき上機嫌、花の噂も聞いて来たれば、明日は幸ひ日曜の事、お駒をも連れて嵐山あたりへ、花見に行かむといひ出たるは、長吉の報告に、今日の留守の無難を喜びての事なるべし。お糸も優しくいはれて見れば底の心はすまね[#「すまね」に傍点]ども、上辺に浮きたる雲霧は、拭ふが如く消え失せて、その夜は安き眠りに就きぬ。

   中

 よそにまたあらしの山の花盛り、花の絶間を縫ふ松の、翠《みどり》も春の色添ひて、見渡す限り錦なる花の都の花の山、水にも花の影見えて、下す筏も花の名に、大堰の川の川水に、流れてつひに行く春を、いづ地へ送り運ぶらむ。川を隔てて見る人の、顔も桜になりながら、まださけさけと呼ぶもあり。菓子売る姥の強ひ上手、甘きに乗りてうつかりと、渋き財布を解くもあり。人さまざまの花莚敷き連ねたるそが中を、夫婦に子供下女丁稚五人連れにて過ぎゆくは、これ近江屋の一群なり。お糸は日頃籠の鳥、外に出る事稀なれど、春の花見と秋の茸狩[#「茸狩」は底本では「葺狩」]これのみは京の習ひとて、いかに物堅き家にても催すが例なれば、庄太郎も余儀なく、世間並に店のものは別に出しやりつ、お糸は己れ引連れて、かくは花見に出でしなり。外珍しき女の身、殊には去年近江屋へ嫁ぎてより、あるに甲斐なき晴小袖、かかる時に着でやわと、お糸はさすが若き身の、今日を晴れとぞ着飾りたれば、器量も一段引立ちて、美しき女珍しからぬ土地柄にも、これはと人の眼を驚かし、千鳥足なる酔どれの酔眼斜めに見開きて、イヨー弁才天女と叫ぶがあれば、擦れ違ひざまに、よその女連のほんに美しい内方と囁きながら振返るが嬉しく、日頃は人の眼にも触れさせじと、中垣堅く結べる庄太郎も、今日は悋気の沙汰を忘れて、これみよがしに連れ歩行《ある》きぬ。
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 これお糸ちよつと見いな、あの桜の奇麗に咲いた事なア、もう二三日後れると、散りかかるところやつたぜ。
 さうどすなア、いつも十五六日頃どすけれど、今年はちつと早かつたと見えますなア。
 さうやどこで休もな、三軒家あたりがてうどよいのやけど、あまり人が込んでるさかい、どこぞ外の処で。
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とは茶代の張るを厭ひてなるべし。折からとある茶屋の床几《しやうぎ》に腰掛けゐたりし、廿五六の優男、ふし結城の羽織に糸織の二枚袷といふ気の利きたる衣装《いでたち》にて、商家の息子株とも見ゆるが、お糸を見るより馴れ馴れしげに声かけて、
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 これはこれはお糸さん、あなたも今日はお花見どすか。可愛らしいお子様の、いつの間にお出来やしたの。
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 ちよつと庄太郎に会釈して、愛想よし。お駒の頭撫でなどするを、苦々しげに見てをりし庄太郎に、お糸は少しも心付かず、
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 ほんにあなたは幸之介様でござりましたへな、ついお見それ
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