て、叔父が帰りし後はまたジリジリと責めかけて、
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 なぜお前は、日頃心易くもない叔父さんの許へ逃げて行く気になつたのじや。ただしおれの留守に叔父さんと心易くした事があつてか。
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 さすがに再び手|暴《あら》き事はせねど、火の手は叔父の方へ移りて、夜一夜いぢり通されぬ。

   下

 この事ありてより後は庄太郎、仮初の外出にもお糸への注意いつそう厳しく、留守の間の男の来りし事はなきや、お糸宛の郵便どこよりも来らざりしやと、店の者に聞き下女に聞き、なほそれにても飽き足らず、大人はお糸に啗《くは》されて、我に偽る恐れありと、長吉お駒を無二の探偵として、すこし心を休めゐしに、あひにくにも一日《あるひ》の事、庄太郎の留守にお糸の里方より、車を以てのわざと使ひ、母親急病に罹りたれば、直ちにこの車にてとの事なり。お糸は日頃の夫の気質、親の病気とはいへ留守中に立ち出ては悪かりなむと、しばしはためらひゐたりしかど、待つほど夫の帰りは遅く、いかにしても堪へ難ければ、よし我上はともかくもならばなれ、親の死目に逢はぬ憾《うらみ》は、一生償ひ難からむと、日頃の温和には似ず、男々しくも思ひ定めて、夫への詫びはくれぐれも下女にいひのこし、心も空に飛行きぬ。その跡へ帰り来りたる庄太郎、お糸の見えぬに不審たてて、
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 これお糸どうしたのじやどこに居るのじや、亭主の帰りを出迎へぬといふ不都合な事があるものか。
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 見当り次第叱り付けむの権幕恐ろしく、三人の下女は互ひに相譲りたる末遂に年若なるが突き出されて、
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 ヘイアノ先ほどお里からお迎ひが見えまして。
 どこから迎へが来たツ。
 お母アさんの御病気やとおつしやつて。
 フム苦しい時には親を出せじや、親の病気が一番エエいひ草じや。それでお糸は出て行たのか。
 ヘイお留守中で済みませんけれど、何分急病といふ事どすさかい、充分お断りをいふといてくれとおいひやして。
 ソソンそれて何ぞ風ろ敷包でも持て行たか。
 イイエ何にもツイお羽織だけを召しかへやして。
 ハテナ。
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 考ふる隙に、下女は龍の顎《あぎと》を逃れ出でたる心地、台所の方へ足早に下りつつ、三人一時に首を延ばして、主人の容子いかがとこはごはに窺ひゐる様子なり。
 庄太郎はやがてスツクと立上り、お糸の部屋へ入りて箪笥の引出し、手文庫の中はいへば更なり、鏡台の引出しまでも取調べて、
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 ハテナ別に何にも持出してはゐぬやうな。そんならやはりほんまかしら、ええわおれが行て見て来てやろ――これ長吉車呼んで来い。
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 いつになき寸法に長吉は驚きて、
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 ヘイアノ人力どすか、なんぼ位で応対致しませう。
 馬鹿め、なんぼでもええわ、達者そうなを呼んで来い。
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 近江屋始まりてより以来《このかた》、始めて帳場の車は呼ばれつ、値段の高下を問ふに及ばず急げツとばかり乗出しぬ。お糸の里といふは、六角辺のさる糸物商、家の暖簾の古びにも名ある旧家とは知らるれど、間口の広きには似ず、店の戸棚はがたつきて、内輪はそれ程にもなき様子なり。母といふは内娘にて、今の父重兵衛といふは二度目の入夫、お糸の為には義父なればや、お糸は何事も遠慮がちにて、近江屋へ嫁ぎてよりの憂さつらさも、ついぞ親里へ告げ越したる事なければ、両親はただお糸を幸福ものと呼びて、我が家よりも資産|饒《ゆた》かなる家へ片付けしを喜びぬ。庄太郎は以後の懲らしめ、たとへその事の実否はともあれ、お糸が泣いて詫ぶる顔見では済まされじと、三行半《みくだりはん》の案文さへ、腹の裏に繰返しつ、すわとばかり飛下りしに、お糸の家の事の体容易ならず、医師の車と覚しきは二台まで門辺に据へられつ、家内は鳴りを鎮めてしんみり[#「しんみり」に傍点]としたる体に先づ張詰めし力も抜けて、我知らず足音も穏やかに、案内を乞ひて奥の間へ通りしに、次の間には主人と医師との立ち噺、声は小さけれど耳引立てる庄太郎には聞こえて、
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 どうもよほどむつかしさうに見えまするな、滅多な事はござりますまいか。
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 案じ顔に問ふは主人なり、八字髭美しき医師はちよつと首をひねりて、
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 さうーどうもまだ何ともいへませぬネ。先づ今日明日はよほど御大事になさい。
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 かくとききては庄太郎も、お糸にここへ出よとはいはれず。急に我も気遣はしさに、見舞に来りし体にもてなして、医師を見送り果てたる重兵衛に向ひ、慇懃に会釈しつつ、
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 どうも御心配な事でご
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