旦那さん旦那さん。
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 おづおづとして止めてゐたれど、庄太郎の暴力とても女の力に及ばざれば、側杖喰はむ恐ろしさに、下女等は店へ駈け付けて、若い者呼びさましたれど、これは日頃覚えあれば出も来ず、男の顔見せてはかへつて主人の機嫌損はむと、いづれも寐た振して起きも来ず。お糸も今はその身の危さに、前後を顧ふに遑《いとま》あらず、我を忘れて表の方に飛出したるを見て、庄太郎は我手づからくわんぬきを※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]し、
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 誰でも彼でも、断りなしにお糸を内へ入れたものには、きつとそれだけの仕置をするぞ。
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 わめき散らして立去りたる後は、家内|寂然《ひつそ》として物音もせず。多くの男女も日頃の主人の気質を知ればか、これも急に開けに来る様子はなきにぞ、お糸はしばし悄然として、その軒下に佇み居たりしが、折悪しくも巡行の査公、通りかかりてジロジロとその顔を眺め、幾度か角燈の火をこなたに向けて、ピカリピカリとお糸の姿を照らしながら過ぎゆくも心苦しく、自然咎められては恥の恥と、行くともなし二足三足歩みかけしが、さてどこへと指さむ方はなし。媒妁人の家は遠きにあらねど、これは媒妁とはいへ他人なれば、恥を曝すも心苦し。里方へ帰りては事むつかしくなりもやせむ、とてもこのまま家へは入れらるまじき身を――お、それよそれよ程近き叔父様の家、そこまでゆきてともかくも身を頼まむと、平常着《ふだんぎ》のまましかも夜陰に、叩き苦しき戸を叩きぬ。
 叔父も一時は驚きしが、若きものには有うちの事とて取合はず。
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 ハ……出て行けといふのは男の癖やがな、それを正直に出るといふのがお前の間違へじや。そのままあやまつて寝さへすれば、翌朝《あす》は機嫌が直るといふものじや。それを下手に人が口を入れると、何でもない喧嘩に花が咲いて、かへつて事がめんどうになるものじや。私が挨拶してやるのは何でもないが、それよりはお前が一人でいんだ方が、何事なしに納まるやろ。あんまり仲が好過ぎると、得て喧嘩が出来るさかい、仲好しもゑい加減にしとくがよいじやハ……
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 事もなげにいはれてみれば、泣顔見するも恥づかしけれど、お糸は更にさる無造作なる事とは思はず。さはいへこれこれでと打明けむは、いかに叔父甥の間柄とはいへ、夫の恥辱《はぢ》となる事と思へばそれもいはれず。ただ責めを己れ一身に帰して、
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 なるほど承つてみますれば、そんなものでござりまするか存じませぬが、何分にも今晩のうちの人の立腹は尋常《ひととほり》の事ではござりませぬ。決して決して喧嘩といふではございませぬ、何事も不調法なる私うちの人の立腹も無理はござりませぬが、それはどこまでも私があやまりますさかい、どうぞ叔父さん御慈悲に御挨拶下されまして。
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と声を顫わせ頼むけしき、容易の事とも思はれねば、叔父もやうやく納得して、
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 それでは私が送つてやろ、おおもう十二時は過ぎたのや。家で一晩位泊めてもよいのやけど、なんぼ甥の嫁でも人の女房、断りなしに泊めても悪かろ、そんなら今から。
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 煙草入腰に※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]して立上るに、お糸もやうやく力を得て、どうぞこれで済めばよいがと、危ぶみながら随ひ行きぬ。
 さて叔父のおとなひに、一も二もなく門の戸は開かれたれど、さぞ叔父様のお骨の折れる事であろと、お糸は我が家ながら閾《しきゐ》も高くおづおづと伯父の背後《うしろ》に隠れゐたるに、案じるよりは生むが易く、庄太郎は前刻《せんこく》の気色どこへやら、身に覚えなきもののやうなる顔付にて、
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 これはこれは伯父様どうも夜中に恐れ入りまする、お糸のあはうめ[#「あはうめ」に傍点]が正直に、あんたとこまで行きましたか。ほんまに仕方のない奴でござりまする。ほんの一と口叱つただけの事で。
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 一言を労するにも及ばぬ仕儀に、叔父はそれ見た事かといはぬばかり、お糸の方を顧みて苦き笑ひを含みながら、
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 おおかたそんな事やろと思うたのやけど、お糸が泣いて頼むものやさかい、よんどころなくついて来たのじや。――がマア痴話もよい加減にして人にまで相伴させぬがよい。
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 日頃庄太郎の仕向けを、快からず思へるままに、少しは冷評をも加へて、苦々しげに立去りぬ。跡にはお糸叔父の手前は面目なけれど、まづ夫の機嫌思ひの外なりしを何よりの事と喜びしに、これはただ叔父の手前時の間の変相なりしと見え
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