ざりまするな、留守中にお糸を呼びに御遣はしになつたといふ事を承りましたので、ツイ私も取るものも取りあへず御見舞に出ましたので、ツイ御見舞の品も持つて出ませず、誠にどうもすまぬ事でござりまする、どんな御様子でござりまするな。
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心配らしくいはれて重兵衛も喜び、
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イヤどうもお留守中に呼び寄せて、済まぬ事でござつた。が何分にもただ今お聞きの通りの次第でござるから未だ海のものとも山のものとも付かぬといふ仕儀、万一にも母の死目に逢はせぬといふやうな事があつては、私もなさぬ中の事じやさかい、母親なりお糸なり心がいつそう不憫でござる。そこでどうぞここ二三日の内お糸をお借り申す訳には行きますまいか。
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事をわけていはれてみれば、嫌といふ訳にはゆかず、かへつて藪を叩いて蛇を出したといふやふな心持を抑へて、
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ヘイ、イエ、ヘイ宜しうござりまする。家の方はどうなと致しますさかい、お心置なしお留置なすつて。
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ちよつとお糸をと顔だけでも見たさに呼びて、舅の手前殊勝らしく、
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そんなら二三日御介抱申すがよい、家の方は気にかけいでもええさかい。
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さすがに人の性は善なりけり。かく世間並の挨拶はして帰りしものの、考へて見れば父も義父なり、医師も立派なる紳士なりと、また例の心よりさまざまなる妄想起こりて夜もおちおちと眠られず、淋しさと気遣はしさに明くるを待ち侘びて、再び見舞といふ触れ込みにて去年の暑中見舞に、外より貰ひ受けたる吉野葛壱箱携へ、お糸の方へ至りしは、その実妻を監督する心とも、知らぬ母親は喜びて、
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ああ今の今まで庄太郎さんは、あんな深切なお方とは知らなんだ。御用も多かろにまた御見舞にとは……お糸庄太郎さんを大事にしてたもや、一生見捨てられぬやうにな、あんな深切なお方はまたとない、私もこれでお前の事は安心の上にも安心して死ねる。
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聞くお糸はあながちさうとのみは思はねど、死ぬる際にも我が事は思はず、子を思ひくるる親の慈愛、身にしみじみと有難く、ああ何にも御存じない母様の、御安心なさるがせめてもの思ひ出、母様なき後は父様も義理ある中、打明けて相談する人はなけれど、今
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