庄太郎はやがてスツクと立上り、お糸の部屋へ入りて箪笥の引出し、手文庫の中はいへば更なり、鏡台の引出しまでも取調べて、
[#ここから1字下げ]
 ハテナ別に何にも持出してはゐぬやうな。そんならやはりほんまかしら、ええわおれが行て見て来てやろ――これ長吉車呼んで来い。
[#ここで字下げ終わり]
 いつになき寸法に長吉は驚きて、
[#ここから1字下げ]
 ヘイアノ人力どすか、なんぼ位で応対致しませう。
 馬鹿め、なんぼでもええわ、達者そうなを呼んで来い。
[#ここで字下げ終わり]
 近江屋始まりてより以来《このかた》、始めて帳場の車は呼ばれつ、値段の高下を問ふに及ばず急げツとばかり乗出しぬ。お糸の里といふは、六角辺のさる糸物商、家の暖簾の古びにも名ある旧家とは知らるれど、間口の広きには似ず、店の戸棚はがたつきて、内輪はそれ程にもなき様子なり。母といふは内娘にて、今の父重兵衛といふは二度目の入夫、お糸の為には義父なればや、お糸は何事も遠慮がちにて、近江屋へ嫁ぎてよりの憂さつらさも、ついぞ親里へ告げ越したる事なければ、両親はただお糸を幸福ものと呼びて、我が家よりも資産|饒《ゆた》かなる家へ片付けしを喜びぬ。庄太郎は以後の懲らしめ、たとへその事の実否はともあれ、お糸が泣いて詫ぶる顔見では済まされじと、三行半《みくだりはん》の案文さへ、腹の裏に繰返しつ、すわとばかり飛下りしに、お糸の家の事の体容易ならず、医師の車と覚しきは二台まで門辺に据へられつ、家内は鳴りを鎮めてしんみり[#「しんみり」に傍点]としたる体に先づ張詰めし力も抜けて、我知らず足音も穏やかに、案内を乞ひて奥の間へ通りしに、次の間には主人と医師との立ち噺、声は小さけれど耳引立てる庄太郎には聞こえて、
[#ここから1字下げ]
 どうもよほどむつかしさうに見えまするな、滅多な事はござりますまいか。
[#ここで字下げ終わり]
 案じ顔に問ふは主人なり、八字髭美しき医師はちよつと首をひねりて、
[#ここから1字下げ]
 さうーどうもまだ何ともいへませぬネ。先づ今日明日はよほど御大事になさい。
[#ここで字下げ終わり]
 かくとききては庄太郎も、お糸にここへ出よとはいはれず。急に我も気遣はしさに、見舞に来りし体にもてなして、医師を見送り果てたる重兵衛に向ひ、慇懃に会釈しつつ、
[#ここから1字下げ]
 どうも御心配な事でご
前へ 次へ
全23ページ中16ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
清水 紫琴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング