逝くという人には、何事もお聞かせ申さぬが何よりの孝行と、わざと嬉しげなるおももちにて、
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 さうでござりまする、誠にやさしい人で、私も幸福でござりまする。どうぞお母アさん何も御心配おしやはんと……
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 さりげなくいふお糸の胸は、乱れ乱れてかきむしらるるやうなり。さるを庄太郎は急に帰りさうなる気色もなく、とかくうるさく附き纒ふを、親の手前よきほどにもてなして、心は母の枕辺にのみ附き添へど、勤めは二ツ身は一ツ、一ツの躰を二ツに分けて、心を遣ふぞいぢらしき。
 かくて庄太郎夜は帰れど昼は来て、三日ばかり経し明け方、医師の見込よりは、一日後れて知らぬが仏の母親は、何事も安心して仏の御国へ旅立ちぬ。お糸は今更のやうに我が身の上悲しく、ああ甲斐もなきこのわたしをなど母様の伴ひたまはざりしと、音にこそ立てね身をもだえて泣き悲しむ傍らに、庄太郎が我を慰め顔に共泣きするがなほ悲しく、ああこれがこんな人でなければとお糸はいとど歎きの数添へぬ。
 知らぬ庄太郎は早これにて事済みたるかのやうに、
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 お糸もう明日はいぬる[#「いぬる」に傍点]やろ。
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 促し立つる気色浅ましく、ああ人の妻にはなるまじきものと、お糸はつくづく思ひ染みぬ。
 わづかに一夜の通夜を許されたるのみ。その翌朝は庄太郎、一度自宅へ立戻りて衣服など改め来り、参拾銭の香奠包み、紙ばかりは立派に、中は身分不相応なるを恥もせでうやうやしく仏前に供へ、午後はお糸と共に葬式の供に立ちたれど、その実誰の供に行きしやら分らず。眼は亡き人の棺よりも、親類の誰彼に立交らふお糸の上にのみ注がれつ。事果つるを待ち侘びて直ちに我が家へ連れ帰り庄太郎はホツと一息したれど、お糸の面《おもて》はいとど沈み行きぬ。かくて一七日《ひとなぬか》二七日《ふたなぬか》と過ぎゆくほども、お糸は人の妻となりし身の、心ばかりの精進も我が心には任せぬを憾《うら》み、せめてはと夫の家の仏壇へともす光も母への供養、手向くる水も一ツを増してわづかに心を慰むるのみ。余事には心を移さぬを、庄太郎は本意なき事に思ひて、
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 お糸マアそないにくよくよせんと、ちつとはここへ来て気を晴らしいなア。何もこれが逆さま事を見たといふではなし、親にはどつちみち別れんならんものやがな
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