年七歳なるが学校より帰り来り、
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 ヘイお母アさんただ今。
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 おとなしく手をつかゆるを、お糸は見て淋しげなる笑ひを漏らし、
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 おおえらい早かつたなア、もうお昼上りかへ。
 ヘイお昼どす。
 そんなら松にさういうて、早うお飯喰べさせてお貰ひ、お母アさんも今行くさかい。
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 お駒はものいひたげに、もぢもぢとしてやがて、
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 あのお母アさん、焼餅たらいふものおくれやはんか。
 エ、焼餅、焼餅といふものではないえ、女子《おなご》の子はお焼きといふものどすへ。けどそれは今内にないさかい、また今度買うて上げますわ。
 いいえ私は知つてます、お焼きがあると皆ンながいわはりました。
 誰れがへ。
 学校で隣のお竹さんや、向ひのお梅さんが、あんたとこにはお父ツさんが、毎日焼いてはるさかい、たんと焼餅があるやろ、いんだらお母アはんにお貰ひて。
 ええそんな事をかへ。
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 お糸は口惜しく情なく、さては夫の嫉妬《りんき》深き事、疾《と》くより近所の噂にも立ちて、親の話小耳に挾みし子供等の、口より口に伝はりて、現在父の悪口とも知らぬ子供の、よそでなぶられ笑はるるも、誰が心のなす業ぞや。さはいへ夫を恨むは女の道でなし、我に浮きたる心微塵もなけれど、疑はるるはこの身の不徳、ああ何となる身の果てぞと、思案に暮るるをお駒は知らず。継子根性とて、あるものを惜しみて、母のくれぬものとや思ひ違へけむ、もうもう何にもいりませぬといはぬばかり、涙を含み口尖らせ、台所の方へ走りゆく後姿いぢらしく、お糸は追ひかけて、外のものを与へ、やうやくに機嫌とり直しぬ。
 五時といふに庄太郎は帰りつ。約束の土産の外に、お糸が日頃重宝がる、小椋屋のびんつけ[#「びんつけ」に傍点]さへ買ひ添へて、いつになき上機嫌、花の噂も聞いて来たれば、明日は幸ひ日曜の事、お駒をも連れて嵐山あたりへ、花見に行かむといひ出たるは、長吉の報告に、今日の留守の無難を喜びての事なるべし。お糸も優しくいはれて見れば底の心はすまね[#「すまね」に傍点]ども、上辺に浮きたる雲霧は、拭ふが如く消え失せて、その夜は安き眠りに就きぬ。

   中

 よそにまたあらしの山の花盛り、花の絶間を縫ふ松の、翠《みどり》も春の色添ひ
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