《しようばい》も営みかねるやうになりしかば、いくほどもなく家屋《いえ》土蔵《くら》をも人手に渡してその後は、小さき家に引移り、更に小商法《こあきない》を始めしかど、商人ながら相応の大家に生まれしお袖の父、万事万端応揚にて、さながら士族の商業も同様、損失のみ多ければ、遂に再びその店をも鎖す始末となりしなり。この際お袖の実母といふは、それこれの心労にて、不治の病を惹き起こし、帰らぬ旅へと赴きしかば、父は男の手一ツにお袖を育つることなれば、何かに付けて不自由ならむと、後妻《こうさい》を勧むる人あるを幸いに、お袖がてうど八ツの歳今の継母を迎へしなり。さるにこの継母といふは、お袖が家へ来るまでに、既に三|回《たび》も他へ嫁《かしづ》きて、いづれも不縁になりしといへば、ほんの出来合いの間に合はせものにてとうてい永持ちのせむやうはなし。さればお袖が家も、その頃既に逼塞せしとはいへ、古河に水絶へずとの譬喩《たとひ》に漏れず、なほいくばくかの資財あるを幸ひに、明日の暮しは覚束なくとも、今日の膳には佳肴を具へて、その日その日を送るをば、元来贅沢に成長せしものの僻《くせ》とて、お袖の父も別段意には介せず。夫婦顔を突合はしての坐食に、幾年をか送り来りぬ。されどいつまで生活の材料の尽きずしてあるべき。加ふるに父は一二年前より肺病に罹りゐしに、ふとこの秋夥しく咯血して、その後は日毎に見ゆる身躰の疲《や》せ、とても冬中はと医師も眉を顰むる程になりたれば、それこれの費用多く、今はその日の米代にさへ差支ふる身となりしなり。かかる場合に至りても、継母は夫を助け、娘を労《いたわ》る心とてはなく、かへつてその身の衣服まで売却《うり》なして今は親子三人が着のみ着のままなる困苦《くるしみ》をば、ひとへに夫の意気地なきに帰して、夫を罵り、お袖にあたり[#「あたり」に傍点]、かくは波風《さわぎ》を起こせるなり。
お袖はかかる父母の間に人と成りたれば、今の時節に学校へも遣られず。年端もゆかぬその内より、下女《はしため》代はりに追廻されて、天晴れ文盲には育て上げられたれど、苦労が教へし小賢《こさか》しさに、なかなか大人も及ばぬふんべつ思慮する事もあり。
されば今宵もお袖の心には、父の言葉は無理ならず、母は道理に背けりと、思はぬにてはなけれども、万一母に怒られて、この家を去らるる事ならば、他事はとにかく、死期遠からぬ父の介抱、心に任せぬ事もあらむ。母の機嫌を直すにしかじと思ひて「おッ母さん私が悪かつたのだから、堪忍しておくれ、お父さんは病気のせいで、何でも腹を立つんだから、モウよい加減に打捨《うちや》つておおきよ」とはこの少女が思ひ切つて云ひ出せし詞なり。
ああこの無邪気なる少女をして、かかる詞を発せしむるは、継母の罪か、境遇か、はたまたその責め父にあるか、思へば可憐なるこの少女の、行末何となる事ぞ。父はこの世に在りても亡き身、母は何時《いつ》お袖を捨つるやも知れず。世には流行の三枚重ねの小袖元日の間に合はざりしとて、むづかりたまふ嬢様もあるものを。(『女学雑誌』一八九四年一日六日)
底本:「紫琴全集 全一巻」草土文化
1983(昭和58)年5月10日第1刷発行
初出:「女学雑誌」
1894(明治27)年1月6日
※底本では、文末の日付に添えて『女学雑誌』を示す記号として「*」を用いていますが、『女学雑誌』に直しました。
入力:門田裕志、小林繁雄
校正:松永正敏
2004年9月20日作成
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