母に代はりて世帯の苦労を、させらるる故と知られたり。
母は巨燵へあたりながら、ランプの火にて一二服煙草を吸ひじれつたそうにポンポンと灰吹を叩き「お袖ちよいとここへおいで、お前に聞きたい事がある。何かいお前は隣の花ちやんか誰かに、おッ母さんの事を悪く言つて聞かせた覚へがあるだらふ」「何をつて、おッ母さんがお前をひどくするツてサ」思ひ掛けなき問にお袖は眼を見張りて母の顔を打守り、「イイエおッ母さん、誰がそんな事をいふもんかね。私は何もおッ母さんの事を」「ソリやァあるとはいはれまい。けれど今夜差配の女房《おかみ》さんに聞きやァ、何でも私が大変に継子イヂメでもするやうに、近所で噂をしてゐるとサ。大方お前が花ちやんか誰かに云ひ告けたのだらふ」「イイエ何もいやアしない」「でも差配の女房さんが、こういふ事をいつたよ。お前さんは真実《ほんとう》にお仕合《しあわ》せだ、お袖さんが何もかもおしだからといふから。ナゼそんな事をと聞ひて見ると、隣の花ちやんがいつてたそうだ。お隣では、おッ母さんは何もしないで、お袖さんばかりが家の事や、お父さんの介抱をしてゐて、ほんとにお袖さんはかわいそふだとよ。何かいおッ母さんはそんなに何もしないかい。そりやもうお前も十五だし、女の子の事でもあるから、何でも仕習つておかないと、先へよつてからお前が困ると思つて、お飯《まんま》も洗濯も、私がする方が早いのだけれど、めんどうを見てお前にさせてやるのは、みんなお前の為を思ふから※[#小書き片仮名ン、30−15]だ。お父さんの看病だつてもその通り、とてもお父さんはよくならない事は極まつてるし、もう長い事はあるまいと思ふから、亡くなつた後にお前が残念がらないやうにと思つて、一つでもお前にさすやうにしてやるんだアネ。それをそうとも思はないで、いかに生さぬ中の継子根性とはいへ、私ばかしひどく遣ふなんて、近所へ触れ廻すといふ事があるものかネ。ほんとにお前は太い子だよ。おッ母さんの前てばかし、ホイホイいつて、お父さんの事でも何でも私がするから。おッ母さんは搆わないでおいでなんて、お上手を遣つてサ、蔭へ廻つて讒訴《ざんそ》するなんッてほんとうに呆れたものだよ。これがおッ母さんだつて、自分が悪くいはれないやうにと思つて、お前の為を思はないなら、お前には何もさせずに、それこそチヤンと遊ばせておいて、おッ母さんが何もかもするわネ。そうすると人にかれこれいはれる事もなし、お父さんにイヤに気を廻させる事もないんだけれど、それでは今もいふ通り、お前の為にならナイからだ。それやこれやのおッ母さんの気苦労は思はないで、おッ母さんを悪くいふとは、ほんとうに親の心子知らずとはこの事だよ。何だとへ、私は何もいはないと。言はないものがナゼ人が知つてます。お前が何もいはないに、誰がそんな事にまで、世話を焼くものがあるもんかネ。ヘン、いくらおッ母さんがお心善しだつて、あんまり馬鹿におしでないよ。言つたら言つたでいいから、おッ母さんもこれからそのつもりにするばかりの事だ。エ、何だとへ、怒られちやア困るとへ、困るならナゼ怒られるやうな蔭口をきくんだネー」と並べ立てたる百千言、詞は巧みに飾れども、飾りきられぬ行ひは、近所の人の眼に触れて、お袖は何も言はずとも、噂さるるは我と我が、身の行ひにありぞとも、心付かでや一筋に、お袖が継子根性から人に告げ口せしものと、思ひ僻めて胸安からず、なほも詞を継がむとす。
いつの程にか目覚めけむ、父は何をか言ひ出でむとして、コホンコホンと咳き入りぬ。継母はジロリそなたを見遣りたるまま、わづかに口を噤みぬ。お袖は口虎を逃れし心地、これを機会《しほ》に父の辺りへ走り行けり。病父はお袖の介抱にやうやく動|悸《き》治まりけむ、しばらくありて口を開き「お霜、己れも先刻から聞ひてゐたが、子供を捉へて、あんまり喧しう云ひなさんな。お袖の事はマアそれでも善いとして、子供のやうなものに病人を任せ、夜|歩行《あるき》するおぬしもあんまり誉めたものでもあるまい。永うとはいはぬ、せめて己れは寐返りの出来るやうになるまでなりとも、少しはめんどうを見ておくれ。いくらよく気をつけるからツて、お袖はまだ子供だ、一人では手の届かぬ所もある」と寄らず障らぬ云ひ振りをも、継母は何と聞き僻めけむ。今度は病夫《おつと》に取つてかかり、なほとやかくといひ募る。ああまたこれが隣へ聞こへて、人の噂にならねばよいがと、お袖は小さき胸を痛めぬ。
さてここにてお袖が一家の履歴を説くべし。お袖の父は、もと相応なる商人《あきうど》にて、維新の頃までは、広き江戸の町にても、何町の何屋と少しは人にも知られたるほどの身代にて出入屋敷も数多く有せしかど、維新の瓦解に俄の狼狽、貸付けたる金はその十分一も戻らず、得意先は残り少なに失ひて、これまで通り商業
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