りたまひぬ。
その中
朝に北越の客を送り、夕に薩南の人を迎ふる旅籠屋程こそなけれ、下宿屋渡世の朝夕の忙しさ。それ十番でお手がとゆふ飯を運べば、いや飯はまだ喰わぬ、それよりもこの暗いに、燈は何として点けぬ、我を梟と心得てかとわめきたまふかなたには。破れよと櫃の底叩きて、飯の代はりは何とて遅き、堂々たる六尺の男子、これ程の薄扶持に済まさうとは太い量見。否それよりも我が方への牛肉は何とせし酒屋へ三里とは聞かねど、牛屋へは五里さうなと。口々に急立《せきた》てらるる忙《せわ》しさに、三人四人の下女《おんな》は居たれど、我も客間へ用聞きにゆく事もありしに。多くの書生客の中にても、誠に我が注意を惹きしは、その頃大学予備門に通ひゐたまひし浅木|由縁《ゆかり》といへる人なりき。
何にこの人しかく眼立ちしやといふに、その部屋は行燈部屋に隣れる三畳敷にて、外にはこれに類ふべきものなき麁末なる部屋なりしと。一ツにはまたその人の身装《みなり》我のみならで、誰の注意をも惹きしなり。先づその一ツを挙げていはば、白紺大名の手織じま。これぞこの人の夏冬なしの平常着《ふだんぎ》にて、しかもまた一張羅なれば。
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