へむとせしに、子供ながらも空腹に眼敏き松之介、これに睡りを醒まされて、薄暗き燈に父を認め、
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 おツかア、ちやんはもう帰つたね。おらアお米を買つて来やうや。
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 睡き眼をこすりながら、むくむくと起き出づる、子の可愛さは忘れねど、腹立つ際とて、夫への面あて、わざともぎだう[#「もぎだう」に傍点]に突遣りて、
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 おツかアは知らないよ、ちやんにおねだりな。
 でもちやんは寐てるぢやないか。
 いいから起こしておやりよ、耳のはた[#「はた」に傍点]で大きな声をするんだよ。
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 唆《そその》かされて正直に、父のからだに取付きつ、
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 ちやんやちやんやお銭《あし》をおくれ、お米を買つて来るんだからヨー。
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 幾度か呼べど答へもなき出して、再び母の袖にすがるをさすがにも振切りかねて、我知らず松之介を抱き寄せ、
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 仕方がないからもう一寐入しなよ、今に夜が明けたら、おツかアがどうにかしてやるよ。いい児だ寐なよ。
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と背を撫づれば、いつしかすやすや泣き入る子と、夫の寐顔を見くらべて、深くも思ひに沈める内、多くもあらぬカンテラ[#「カンテラ」に傍点]の油はここに尽き果て、ハタリ火の消えたれば、三人の寐姿は、闇に葬られたれど、夜もすがら苦しげにうめく妻の太息と、さも快げなる夫の鼾は、高う低う屋の棟《のき》に響きて、可愛や寐た間も魂は、米屋の軒をめぐる松之介の夢醒めむかと危ぶまれぬ。(『女学雑誌』一八九七年二月二五日)

   下

 青き松白き砂、名にあふ舞子の浜のなかも、をしや暮色に蔽はれて、呼はば応へむ、淡路島山の影もやうやく薄墨に、なると[#「なると」に傍点]のかなたにほの見えし紀伊和泉のやまやまは、雲かとばかり波に消えつ。鏡のやうなる海面も、どんよりと黒みゆきたれど、波に尾をひく夕日影は、西の海に金色の名残漾はせつ。暮れむとして暮れはてぬ夕景色、夏ならはここ千金の一刻なるべきを、今は都人の花に酔ふ頃なれや、ここらそぞろ歩行《あるき》する人は稀なるに、病をここに養ふやらむ。老若二人の婢にかしづかれて、いづれ身分ある人の奥様と覚しきが、前刻よりこの松原を、ゆきては戻り、人戻りては行きたまふは、晩餐後の
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