謡はるる、それもよけれど、今頃は、どこにどうしてゐたまふとも、知らぬ父上なつかしや。たとへばどこの果てとても、ここにかくての一言を、我一人には夢になり、御沙汰したまふものならば、よしや来るなのお詞を守るにしても、朝夕を、少しは慰む方あらむ。子細のあれば、身を隠す、我は現世になきものと、ひとへに良人に冊《かしづ》けよ。我は元来|強情《すね》ものの、人交はりは好かぬ身を、心にもなき大都の風に、顔|曝《さら》せしは、誰が為ぞ。日本一の花聟に、添わせむまでの父なりし。今尾春衛の妻はあれ、この親爺の娘とてはなき、身の上の気散じは、今より后の我世界を、破れ庇《ひさし》の月に嘯《うそぶ》き、菜の花に、笑ふて暮さむ可笑《おかし》さよ。忘れても世の中に、血属《ちすじ》は一人の父にさへ、離れたる身の、宿業を謹みて、春衛殿に、愛想|竭《つ》かさるるな。我をいづこと、求めむ心の出でなむには、それだけ多くを、良人に尽くせ。尽くして尽きし百年の、寿命は今尾の土となれ。土となりて、魂のかの世に逢はむその時にぞ、今日の子細は語るべし。それまでは、一ツの秘密を持てる身の、よしや天地に耻なきも、世に辱《はじ》あらむそれよ
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