の、実を結んだは、そなたの一粒。見るにつけても思ひ出す、親様はさぞ心外。いかに若気の誤りも、一生此村の芥になれと、勘当はなさるまい。人間の屑、男子の屑、親兄弟を笑はせて、生まれた子まで屑にする、おれは所詮仕方もなけれど。穢多の唱えも、平民の時節になつて生まれた子を、何の遠慮に一生涯、此村に育ててよいものぞ。先祖の遺体、せめてはこれを、人並々の世に出して、償ひをせふものと。思ふ心を悟りたる、妻も同意は、乳呑子の、そなたを置いて病死の際。どふぞこの子が穢れた血を、あなたのお手で洗ふて下され。河井の家名はどうでもよい、家庫《いへくら》はこの子のもの。素人を父様に持つたお蔭でこの子まで、清まる事なら先祖とて、何の否やを申しませふ。この子の祖父祖母二人共、きつと冥途で喜ぶ顔、私は今から眼に見えて、嬉しふ死んで行きますると。につと笑ふたその顔は、生まれに似合はぬ、美麗しい心のものであつたぞよ。そこでおれが心も決定《きま》り、家庫を金銭《かね》にして、東京へ引越したその後は。我が出所をば知られじと、籍も移して家も買ひ、身持律義にしてゐたれば。誰穢多村の出身と、知らぬを幸ひ、学校へそなたを預けて。我一人金貸|世渡《とせい》も、手を広げず、人交際もせぬ理由《わけ》は。ついした談話《はなし》の、緒《いとぐち》に、身柄を人に悟られまい、無益《むだ》な金を使用《つか》ふまいと、その用心に、なにもかも、一心一手に蔵《おさ》めて置き。天晴れの男に添はせむその時に、拭えぬ曇りは是非もなし。諸芸はもとより、衣類や調度、金で買はれる光だけ、せめては添えてやらふものと、一心込めた親心。廿余年を、何楽しみの偏人生活、友にも、血にも、関係《かかはり》はたへた一人のそなたまで、傍には置かず、すげなうしたは。どうで嫁入りさする時、親と名告らぬつもりの身体、初手から離れてゐるがまし[#「まし」に傍点]と。可愛さを、人並の可愛さにはせぬ心の錠。三年五年はともかくも、廿年をその癖は、これが真実の偏人に、ならずに居らるるものかいやい。さこそは無情《すげな》い父様と、不審も立つた事であろ。泣きも怨みもした顔を、見ぬとて見えぬ親の眼が、偏人は偏人の、泣きやうもした廿年。その甲斐ありて、ありとある、男の中にも、男との、その名ばかりか、ただ一度逢ふても知れる心ばえ。器量はおれが鑒識《めがね》にも過ぎた男に渡したからは、もう用のないこの身体。親も別に拵らえて、河井といふ名の出ぬやうにしてあるからは、すつぱりと役済みのこの親爺。親とはいはぬ親ながら、近所に居るはそなたの妨げ。どふぞ世間の人の眼も、耳も届かぬ処へと、思へば急に故郷の懐かしさはまた格別。乞食の三日が忘られぬ人の情《こころ》の不思議さは、そなたを此村《ここ》に置くまいと、他国に苦労したおれが。自分ばかりはこの村の土となりたさ、多からぬ余命を隠れて住むつもりが。頭隠して尻隠さぬ、不念が基因《もと》のこの失策《しくじり》を、何とそなたに謝罪《あやま》らう。かうと知つたら、かねてより、身の素性をばそなたにも打明けておいたなら、その心得もあつたもの。知らせては一生を、心に咎めて暮さうかと、生中の可愛さを、残しておいたが、失策の種子となつたか残念や。もうこの上は詮方がない。たとへ嘉平はいはずとも、物事万事小細工に、包めるものと思ふたは、おれの誤り、どこぞから、世間へぱつとしてからは、聟殿がなほ気の毒。親爺一人は怨まれまい。父娘二人が同腹で、これまで乃公を欺したかと、痛まぬ腹を探られては、この后のそなたが心も済むまい。思ひ切つて今の間に、そつと離縁を取つて来い。それともにも聟殿が、男を立てて離縁せぬ、新平でも構はぬといはるるならば、それこそ重畳。この親爺はもとより亡いものと思ひ捨て、百千倍も身を責めて、並の女子が貞女には、万倍貞女の手本になり、新平の娘が汚れたか、見ん事世間に見てもらへ。今の思案はこの二ツ。さ、一刻を後れては、一人の噂を増す道理。嘉平人力車のある処まで、荷物を持つて送つてやれと。病苦をものの数ともせぬ、老の一轍金鉄の詞に籠る慈愛の数。さりとてはかくまでも、我を思召すぞとも、知らぬ心の子心に、今も今親を怨んだ勿体なさ。父様許して下さりませ。お道理はお道理でも、これ程のお煩ひ、親を見捨てて帰るのが、まこと貞女の道ならば、孝行はどの身体でいたしませう。かういふ身分が気に入らず、このままに御介抱申し上げたが、済まぬと夫が申すなら、それは先方から違えまする、道はこちらの知らぬ事。よも春衛とてそれ程の、没理漢《わからずや》ではござんすまい。幸ひ昨日のお手紙を、見せましたその時にも、乃公は行かれぬ身体だけ、そなた二倍の御介抱を進ぜてくれ。誰なりとも手助けに、一人二人は召連れてと、心添えてもくれましたれど。かねてからの御教訓、御秘密といふ中
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