に、どういふ事もあらうかと、用心に用心して、供をも連れず参りました上からは。さう早速にこの身分の漏れる事もござんすまい。ともかく四五日御介抱申し上げてのその上に、これならば安心の御容体が見えての事に致しまするも、さほど遅うはござんすまいと。口には平気を装へど。思へばこれが一年か二年に足らぬ契りでも。普通の夫婦を見るやうに、人手任せの気も知らず。出雲の神様、はあこれが、私の夫か妻かとて。合はせられてのその上に、無理に合はせた縁ではなく。他人で逢ふて、贔負眼も、ない間にちやんと見ておいて、許し合ふた上からは。添ふたが一日半時でも、身体ばかりが双棲の、一生涯を連添ふて、生涯気心も知らずにしまふ、雛様の夫婦とは違ふもの。千万年の馴染にも、まさると思ふその中で。夢見たやうな身の素性、これだけは、私も存じませなんだ堪忍してと。打ちつけに、我から破れる相談が出来やうものか。おめおめと、良人に顔が合はせる程なら、離縁との、決心も要らぬ事。それよりも合はせぬ顔を、このまま此村《ここ》に御介抱。一生を、これにて果てるつもりにして、手紙だけにもそのよしを、通じて置かば、二度再び、夫の顔は見ぬとても、生涯を憐れのものよと、思はれて、暮せるだけがまだしもの本望とは、私が愚痴は勝手にせよ。廿余年の御高恩、私ばかりは人並のものになれよと御養育、海山の御慈愛も、親はさうしたものにせよ。子は子の情もあるものを。このままにお傍離れて帰宅《かへ》つた上、もしその素性構はぬといはるるならば私とて、無理に離れる気も抜けやう。さうした時は夫へ不貞、あなたには、かねてよりの御気性。私ばかりの仕合はせを御本意の、親でない子でないと、お便りも絶えての後は御孝行も、どうしてしやう様もない、それが本意でござんしよかと。いはれぬ心の数々を、思ひ残してもじもじする清子をはつたと太一は睨み。まだ行かぬ馬鹿めが。おれが病気が気に掛かるか。定命ならば娘の手で介抱を受けたからとて、このおれの寿命が一日延びやうか。ひとまづ帰宅つてともかくの話を極めて来るまでは、かねて娘でないそなた。たとへ一椀半杯の白湯も汲ませて飲むおれか。そちが介抱しやうとて、こちらが受けぬ介抱に、逗留して何になる。嘉平をはじめ、村のもの、深切な中なればこそ、帰りもした。それをまだ気遣ふて、うかうかする半|※[#「日+向」、第3水準1−85−25]《とき》は、このおれが何十年の苦労を無にする半※[#「日+向」、第3水準1−85−25]と、心注かぬ馬鹿者めが。あれ程いふたにこのおれの心が分らぬ大馬鹿もの、もうその馬鹿ものに用はない。どうなと勝手にしおれいと。枕を取つて投げ棄てる、力は抜けても、中に立つ柱の際に嘉平は喫驚《びつくり》。ひやあ太一さうまでも怒らぬものじや。病気の毒じや勘忍せい。悪いはおれじや、ま、待てやい。お娘はおれがいひ聞かす、いひ聞かすから、聞け太一、待つてくれこれお娘と。間違ひだらけ一息吐き。さてもさてもむづかしい、義理も理屈もあつたもの。余計な事をして退けた、おれが失策。聞く程にの、見る程にの、どう謝罪らうやうもない。悪いはおれじやが、謝罪つて済まぬこの場じや、なお清坊、聞き分けて立つてくれ。頼む拝むこれお清坊。お前が此家《ここ》に居る内はの、太一は怒る、お前が泣く。どちらももつとももつともと聞いてはおれが堪まらぬじや。おれがせつぱを助けると、思ふてちやつと出立《たつ》てくれ。その代はりにはこのおれが、どこまでも、太一の身躰は引受けて、お前の代はりに介抱する。な太一そじやないか、お娘が孝行しやうといふに、お前が怒る法はない。共々にお前も頼め、おれもいふ。素直に出立てくれるのが、これお清坊、孝行といふものじやと。嘉平がその身に引受けて、先に立つたる出拵え。太一もさすが見ぬ振りに、見送る眼、はつたりと、見返る顔に出逢ふては。なう悲しやの一雫、道の泥濘《ぬかり》も帰るさは、恋しき土地の記念《かたみ》かと。とかくは背後《うしろ》へひかるる跡を、心深くも印せしなるべし。

 幾日もなく、今尾大臣辞職の飛報は、世人の耳を驚かしぬ。そは今尾夫人が、新平の出身、世に隠れなきと同時に。さる身をもつて、畏き辺りに、拝謁の栄を辞しまつらざりしは、いかにもいかにも恐れ多き事なりとの。至つて至つて小児《こども》らしき感情問題をもつて、敵党の乗ずるところあらむとせしを。時の総理は一笑に付し去りて顧みざりしも。今尾大臣は、これに対して、大いに悟るところあり。文明の器に盛るに、蛮野の心もて、争奪を事とせる渦中に投じ、生涯を空しき声に終はらむそれよりも。人は女々しと笑はば笑へ、人道の為、しばらく身を教育事業に転じつつ、おもむろに時機を待つべしとて。あらゆる資産と共に、身を北海道に移しけるも。稚きより境遇が生む自棄の子の、あはれ全国そこここに
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