の限り養生をさせましてのその上に、御全快にもなるならば。父子《おやこ》二人が身を捧げ、同じ汚れの名にも染む、人の為にも尽くすぞならば。自からなる楽しみの、その中にしもあるべきを、何にこの身を歎くべき。いやまてしばし、一筋の理屈はよしやさりとても。新平の娘を妻にもしたまひし、良人の名折れ、明日よりの、お名の汚れを何とかせむ。知らぬ昔はともかくも、知りてこの身を潔く、たとへば引いて退いたりとも、それに雪《すす》げる御耻辱が。かかる因果の身と知らば、恋しき君を良人には、持つまじきもの、なまなかに、遂げての後に、遂げずなる、恋とは知らで、恋しさを、一日一日に寄せられつ、寄せては返す浦の波、我からわれて別るるを、貞女の道と知るほどの、道理は何故に覚えしぞ。怨めしの父様や。新平ならば新平と、疾くにも明かしたまはむには。身を憚りて、世の中の、わけても名ある御方に、身を任せじを。これだけが、あなたへ不足。その外は新平ばかり継子にする、世間の人が不足ぞやと。口に出してもいひたさを、じつと堪《こ》らえて涙ぐむ、清子が顔を、さもこそと、太一は重き枕を擡げ。泣くなお清、改めていふて聞かす事がある、少しその手を休めてくれ。よ嘉平貴様も好きで出た角力、共々に聞いてくれ。湯なり水なり欠け椀に一杯注いでくれぬかと、しづかに咽喉を霑《うるほ》しぬ。
下の二
あ残念や、この太一は、京も中京さる町で、人に知られし医師の子が、稚いから継母に、かかる身の習ひとて、おれは知らねど僻み性。下女下男まで弟御には似ぬ兄様よと軽蔑《けな》すのも、やつぱり継母の指図かと、思へば万事おもしろからず。好きで書物の一冊は、読む尻から、弟や継母の小声が気になつて。ええも止せ止せ、家に居て、こんな真似しやうより、外で少しは気晴しと、あてもなく出歩く内。悪い友には誘はれ易く、茶屋が二階の朝酒に、舌鼓打つその頃は、菓子料や薬礼も、大方おれが袂のもの。父が手許の金までも、持出したを見付けられ、もう今日限り勘当と父親の立腹も、われ悪いとは少しも思はず。おほかたこれも弟に、家継がせむ継母の讒言、欺されて無慈悲の父親怨めししと。勿体なや親心の今で思へば血の涙、勘当の意気張を、どの親類にも泣付いて、詫び言いへば済んだもの。おお出て行きませふ、出ませいでか、親のものは子のものを、使ふたからとて、わづかな金に惣領を見替えるほどの親父様こちらとても用はない。男子は裸体《はだか》百貫を、銭の三百持たぬとて、身の置き所ないものか。帰ると思ふて下さるなと十八歳の無分別、不孝たらだら出て見たが。さて世間は怖いもの、銭で買ふ深切は、家並にあつても、無代《ただ》買える人の情は、京中に品切れの札掛けぬが山。親の光は七光の、光に離れた身体では、八方塞がり、こちらから寄つても人は寄せ付けず。たまたま景物出すものが、親御様への詫び言と、敬して遠のく工夫はしても、世渡る橋は掛けてもくれぬに、始めて知つた親の庇陰《かげ》、雨露にも打たれぬ内、親類へも行かうかと、いくたび思はぬではなけれど。いかにしても広言を、継母に聞かれた上からは、男子がさうでもあるまいと、張にもならぬ張持つて、西も東も、行詰りたる味気なさ。まさか死なふと思はねど、桂へ行つてもおもわくの違ひし足の遣り端なく。夜深の人も通らぬを、幸ひの思案場処。桂の橋の欄杆に、水音聞いてゐるところへ、通り掛かつた人こそは、後に舅となるほどの、深い縁《ゑにし》か。その時から他人ではない深切に、我を身投げと思ふたか。是非とも家まで送らふと、強ひられては包まれず。帰るに家なき勘当の身と断れば、なほの事、それはどうでも見離せぬ、いつまでなりと逗留と、連れられたは闇の夜の、月にも見離されたる身、まさかに此村《ここ》であらうとは、心注かぬももつともか。座敷の装飾《かざり》、主人の風体、夜明けて見ても一廉の大商人が夫婦して、親にも勝る親切づく、お顔がさしてもなるまいと、店の方はしめ切つて、何商売と分らねど、座敷にばかり待遇さるる身は詮索の要もなく。一日二日の休み場と思ひの外の逗留も、娘に弾かせし琴の音が、我心をも引止めしか。ままよ帰れといふまではと、腰を据えしが一期の不覚。素人を陥す穽《あな》とは気も注かず。冷たい母の懐に、人となりたるこの身には。世に珍しい人々の情に月も日も忘れ。身を忘れたるその後に、素生をかくと悟りしも。もう遅かりし、行末を、娘に契つた後の事。つらつら思へば世の中に、この仙境もあつたもの。外を奇麗に、内心は如夜叉《によやしや》の中に住まむより、人は穢多ともいはばいへ。人の心の花こそは、かういふ中に咲くものを、折つて棄てるが素人の、穢多にも勝る根性かと。理屈はどうでもつき次第、日が経つにつけ、浅ましと、見た眼も曇つて、皮臭い匂ひもとんと鼻にはつかず。そのまま此村に入聟
前へ
次へ
全11ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
清水 紫琴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング