その姿から見ると、車《くるま》夫ででもあろうか。年は女よりは三つばかり年長《としかさ》に見えた。
大学の大時計と、上野の時鐘とが、言い合わしたように今、十時を打ち出して、不忍池畔の夜は更けた。その静けさを破つて、溝川を越えて彼方の町並を流し行く三味線《しやみ》の音がしんみりと聞こえる。秋といつても九月の末、柳は、もう大概落葉してしまつた。
「でもね。銀さん」と女は改めて呼びかけた。「そりや、あたしにア腹を立つてもおありだらうけども、何もね、伯母《おば》さんが知つておいでの事じやあるまいし、いつまでもそんな真似をしていて、伯母さんに苦労を掛けていやうといふの。……立派な手腕《うで》を持つておありだし、伯父さんの代からの花主《とくい》はたんとお有りだらうし、こころを入れ換へてさ。ちいと酒を控目にしてお稼ぎなら、直とむかしの棟梁になつておしまひだらうに、あのこんな事いつちや何だけど、お前その気は無いのかえ」
「無えー」
「無いつてお前……」と、女のことばはつまる。
「無えよ、うむー。正に無え、……俺《おいら》の手腕はとうにしびれッちまつた。手腕ばかりならいいが、脛も腰も、骨も肉も、ないし魂
前へ
次へ
全8ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
清水 紫琴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング