ぬ、心外の、耻辱の耳に伝はりしに。心はかうと極めながら。恩ある人の娘とて、直ぐその日には出し難き、心の当惑、ここのみを、せめてもの気紛らし。紛らしていふ詞ぞと、知らぬお園は、はあはつと、その身が罪を冒せし心地。御離縁とまで仰しやるを、御酒機嫌とは聞かれまい。堪らえられぬと仰しやるも、奥様のお身に別事が何あらふ。おおかたいつものお悋気も、この身を殺せとまでの事。並大抵ではあるまいに、よくよくお怒りあそばしてか。それに御無理はないにせよ、事の起こりはこの身ゆゑ。あくまでお諫め申さではと。我が腹立ちはどこへやら、鹿子の上をかばひたき、心は急きに急き立てど。思へばこの身がいふほどの、事は疾くより、御存じの方様に、申し上げるは仏に説法。それよりは、この身に愛想を尽かせまするが、何よりの上分別と、打つて替はつた蓮葉風。わざと話を横道へ『それはまあお笑止や。今頃お気注きあそばしてか。私はとうから心待ち、今日は明日はと、御離縁を、お待ち申してをりました。今の奥様ああしておいであそばす限りは、私はどうでも日蔭もの。お妾様といはれまする。それが嫌さに今日までも、謹しみ深い顔を致してゐたを、ほほお笑ひなされて下さりますな。それではいよいよ奥様を、御離縁のその日から、奥様にして下さりますか。その御覚悟が聞きましたい。その場になつて、身分が違ふた。乳母風情の子のそなたとは、祝言出来ぬと仰しやつても、聞く事ではござりませぬ。この間からのお詞を、私は覚えてをりまする。よもや当座の慰みにと、仰しやつたのではござんすまい。もしもならぬと仰しやるなら、世間へぱつとさせまして。外様からの奥様なら、たとへ華族の姫様でも、きつとお邪魔をいたしまする。さうしたならば、あなた様の、お顔がたいてい汚れませう。それお覚悟ならいつなりと、奥様を離縁あそばしませ。直ぐにお跡へ直りまする』と。いつに似合はぬ口振りは、どうでも離縁さすまいの、心尽くしか、不憫やと、思ひながらも、いひ難き、事情の胸に蟠《わだかま》れば。知つても知らぬ高笑ひ『ハハハたいそうむつかしい事をいふではないか。よしよしそれも聞いておく。それでは離縁のその日にも、五十荷百荷の荷を拵らえて、そちを迎える事にしよう。それなら異存のない事か』と。真面目に受けぬもどかしさ。これではやはり正面からの、御意見が好からふと、開き直つて手を支え『それでは、どうでも奥様を、御離縁あそばすお心か』『知れた事を聞くではないか。たつた今、そちは何といふたぞや。後妻にならふといふものが、その物忘れは、実がない。乃公は確《しか》と覚えてゐるぞ。その場になつて、否といふは、どうでもそちの方らしい』と。笑ひを含んで、取り合はぬを。お園はなほも押返して『それ程までのお心には、何故におなりあそばしました』『さあ何故なつたか、乃公にも分らぬ。いづれその内知れやうから、子細の知れたその上で、聞くべき意見は聞きもせう。それまでは、何もいふな、正直者めが。そちの知つた事ではない。安心しやれ』と、笑ふてゐれど。どうでも動かぬ決心は、眉の辺りにほの見ゆるに。もうこの上は詮方がない、せめて最后の御意見に、明日は御恩に背いてなり、ここを走らふ外はなし。さうした上は、これ限り、お目に懸かれぬ事もやと。虫が知らすか、その上の、名残さへに惜しまれて、自づと浮かぬその顔を。澄も憐れと見ながらに、それ程までの心とも、知らねば、いづれその内に、我々よりはいひ難き、噂のよそより伝はりて、思ひ合はする時あらむと。その一ツをば、安心の、頼みにしての高笑ひ。笑ふてお園を慰むるも、半ばは自ら慰むる、心と知らで、白露の、情ありける言の葉を。無分別なる置き所と、賤が垣根に生出《おひい》でし、その身をいとど怨みしなるべし。
第九回
もしお園様え、今日は浅草の年の市、まだ暮れたばかりでござんすほどに。私どももこれから下女を連れて参る筈、留守は主翁《あるじ》が致しまする。あなた様も、是非にお出でなされませぬかと。澄が帰りしその跡へ、太田の妻の入来るに。今日はわけてのもの思ひ、そこらではないものをと、いひたい顔を、色にも見せず。愛想よく出迎えて『それはそれは御深切さまに、有難うござりまする。お供をいたしたいはやまやまなれど。今日はちと、気分が勝れませぬゆゑ、せつかくながら、参られさうにもござりませぬ。それよりは、お帰りのその上で、お話を承るが、何よりの楽しみ。お留守は私が気を注けませう。御ゆつくりとお越しなされて』といふを押さえて『さあそれゆゑ、なほの事お誘ひ申すのでござりまする。御気分が悪いと仰しやるも、御病気といふではなし。お気が塞ぎまするからの事なれば。賑やかな処を御覧なされたら、ずんとお気が紛れませう。ただ今も深井様、お帰りがけにお寄りあそばしまして。どうもあなたが、お気重さうに見えるゆゑ。お紛れになるやうに、して上げましてくれとのお詞。てうど幸ひの年の市、私どもは格別の買ものもござりませねど。あなたさまのお供がいたしたさの思ひ立ち。せめて半町でも、外へ出て御覧あそばしませ。きつとお気が替はりませう。その上でよくよくおいやな事ならば、どこからなりとも帰りませう。無理に浅草までとは申しませぬ。さあさあちやつとお拵らえ』と。この細君が勧め出しては、いつでもいやといはさぬ上手。引張るやうに連れ出して『いつお気が変はりませうも知れませぬゆゑ。ちと廻りでも、小川町の方へ出まして、賑やかな方から参りませう』と。先に立つての案内顔。三は後からいそいそと。お蔭で私もよい藪入[#「藪入」は底本では「籔入」]が出来まする。実はこの間から、お正月に致しまする帯の片側を、買ひたい買ひたいと思ふてゐましたを、寝言にまで申して。奥様のお笑ひ受けた程の品。成らふ事なら失礼して、今晩買はせて戴きましたい。お二方様のお見立を、願ひました事ならば、それで私も大安心。在処の母が参つても、これが東京での流行の品と、たんと自慢が出来ますると。いふに、おほほほほと太田の妻が『まあ仰山な、お園様、あれをお聞きあそばしましたか。あの口振りでは、大方片側で、二三十円は、はづむつもりと見えました。それではとても外店の品では三が気に入りますまい。なふ三、それでは越後屋へでも行かうかや』と。何がなお園を笑はせたき、詞と機転の三が受け『はいはい越後屋でも、越前屋でも、そこらに構ひはござりませぬ。私が持つてをりまするは、大枚壱円と八拾銭。後はすつかり奥様が、お引受け下されませう。ねえ御新造様、あなた様も、お口添下されませ』『まあ呆れた、年の行かないその割には、鉄面《あつかま》しい女だよ』と。二人が笑ふに、お園まで、しばしは鬱さを忘れて行くに。いつしか、九段の下へ出たり。あれ御新造様、あの提燈が、美しいではござりませぬかと。三が詞に、義理一遍。なるほどさうでござんすと、お園も重たい頭を挙げて、勧工場の方を見遣りし顔を。横より、しつかと、照らし見て。まあ待ちねえと。大股に、お園が前へ立ちはたかる、男のあるに、ぎよつとして。三人一所に立止まり、見れば、何ぞや、この寒空に、素袷のごろつき風。一|歩《あし》なりとも動いて見よと、いはぬばかりの面構え。かかり合ひてはなるまいと。年嵩だけに、太田の妻が、早速の目配《めま》ぜ、お園の手を取り、行かむとするを、どつこい、ならぬと、遮りて『お前はどこの、細君様《かみさん》か知らねえが、この女には用がある。行くなら一人で歩みねえ。この女だけ引止めた』と、お園の肩を鷲握み。はや人立のしかかるに。お園も今は二人の手前、耻を見せてはなるまいと。腹を据えての空笑ひ『ホホホホホ、どなたかと思ひましたら助三さんでござんしたか。全くお服装《なり》が替はつてゐるので、つい御見違ひ申してのこの失礼、お気に障えて下さりますな。御用があらば、どこでなり、承る事に致しませう。連れのお方に断る間、ちよつと待つて下されませ』と。物和らかなる挨拶に、男はおもわく違ひし様子。少しは肩肱寛めても、心は許さぬ目配りを、知つても知らぬ落着き顔。ちよつと太田の奥様えと、小暗き方に伴ふに。三は虎口を遁れし心地。あたふたと、追縋り『交番へ行ツて参りませうか』と、顫えながらの、強がりを。お園は、ほほと手を振りて『なんのそれに及びましよ。あれは私が、遁れぬ縁家の息子株。相応な身分の人でござんしたのなれど。放蕩《のら》が過ぎての勘当受け』と、いふ声、耳に狭んでや『なにの放蕩だと』といひかかるを『お前の事ではござんせぬ。こちらの話でござんす』と。なほも小声の談話を続け『何に致せ、ああいふ風俗に、落ちてをる人ゆゑ。当然《あたりまえ》の挨拶が、ちよつとしても喧嘩腰。さぞお驚きなされたでござんしよが。私は知つた人ゆゑに、お気遣ひ下されますな。おほかたいづれお金銭の無心か。さなくば親へ勘当の、詑びでも頼むまでの事。大丈夫でござんすほどに、私にお構ひなさらずとも、お女中と御一所に、お先へお出で下さりませ』と。いへどもどふやら不安心と、肯《うべな》ひかぬるを、また押して『なんのそのお案じに及びましよ。気遣ひな位なら、私からでも願ひますれど。あの人の気は、よう分つてをりまする。途中で逢ふたが何より幸ひ、家で逢ふと申したら、たびたび来るかも知れませぬ。それよりは、どこぞそこらで、捌くのが、何よりの上分別。一度限りで済みまする。きつとお案じ下さりますな。早う済んだらお後から、もしも少し手間取りましたら、お先へ帰つてをりますほどに、御ゆるりお越なされて』と。心易げないひ立に。太田の妻も安心して。もともと進まぬお外出ゆゑ、これを機会《しほ》のお帰りか。それとも外に子細があらば、なほさら、無理にといふでもなし。どの道、危険《あぶな》げ無い事ならと。念を押したる分れ道。見返りがちにゆく影を。ほつと見送る、安心の、刹那を破る大欠伸『いつまで己れを待たすんだ。早くこつちへ来ないか』と。引張りかかるに『何じやぞえ。私が逃げるものではなし。往来中での大声は、ちと嗜んで貰ひましよ。私に話はない筈ながら、あるといはんす事ならば、詮方がないゆゑ行きまする。人通りのない処で、尋常《じみち》に話すが好ござんせう』と。いふはもとより望むところと『それは天晴れよい覚悟だ。それではそこの公園の、中へ這入つて話すとしやう。さあ歩行た』と、お園を先に、逃がすまいの顔付き鋭く。ちよつと背後を振向いても、ぐつと睨むに、怖気は立てど。心は冴えた、冬の夜の、月には障る隈もなき、木立の下を行き見れば。池の汀のむら蘆も、霜枯れはてて、しよんぼりと。二人が立つた影ぼしの、外には風の音もなし『おいここだ』と助三は、傍の床几に、腰かけて『こりやお園、手前はよく己れの顔へ、泥を塗つてくれたなあ。一体ならば、重ねておいて四つにすると、いふが天下の作法だが。そこは久しい馴染《なじみ》だけ、手前の方は許してやる。その代はりにやあこれから直ぐに、男を殺す手引きをしろ。さうして首尾よく仕遂げたうへは、一緒に高飛びして。どこのいづくの果てででも、もとの夫婦にならなきやならんぞ。それがいやなら、いやといへ。ここで立派に殺してやる。手前を殺したその刃物で、直ぐに男を殺したら、重ねておいて殺すも同様。どの道今夜は埓明ける。さあ死にたいか、生きたいか、返答せい』と、威しの出刃、右手《めて》にかざして、詰め掛くるに。不審ながらも、ぎよつとして『男とは何の事。事情《わけ》をいはんせ、分らぬ事に、返事のしやうもないではないか』『へん、盗人たけだけしい。分らぬとはよくいつた。手前の腹に聞いて見ろ』『さあそれを知つてゐる位なら、何のお前に聞きませう。男呼ばはり合点が行かぬ。私はお前の女房じやないぞえ』と。いはれて、くわつと急き込みながら『なるほど今は女房じやない。離縁《さつ》たのは覚えてゐる。が己れが離縁《さ》らないその内から、密通《くつつ》いてゐた男があらふ』『やあ何をいはんすやら。そんな事があるかないかは、お前も知つての筈ではないか。今になつてそんな事。誰ぞに何とかいはれたかえ』『知れた事だ。天にや眼もある、鼻もある。誰が何といはねえでも、曲
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