つた事をしておいて、知れずに済むと思ふが間違ひ。証拠はちやんと挙がつてゐらあ。いつまで己れを欺せるもんけい。済まなかつたと、詫ぶれば格別。まだこの上に、しらばつくれりやあ、どうでも生かしちやおかねえぞ』と。無二無三に斬りかくる、刃の下を潜りぬけ『まあ待つて下さんせ。死ぬる生命は、どうでも一ツ、生きやうとは思ひませねど。ない名を付けられ、殺されては、私や成仏出来ぬぞえ。今は夫婦でないにせよ、従兄妹の縁は遁れぬ中。無理往生をさせるのが、お前の手柄じやござんすまい。事情《わけ》を聞いたその上で、死ぬるものなら、死にませう。尋常に手を合はさせて、殺すがせめての功徳じやないか。ゑゑ気の短い人ではある』と。白刃持つ手に触られては、もともと未練充ち充ちし、身体は、ぐんにやり電気にでも、打たれし心地。べつたりと、腰をおろして、太息《といき》吐き『それ程事情が聞きたけりやあ、話すまいものでもないが。一体手前は、あの深井と、いつから懇《ねんごろ》したんだい』『知れた事を聞かしやんす。あれは私が母さんの』『そりやあいはずと知れてゐる。乳兄妹といふんだらふ。がその乳兄妹が、乳兄妹でなくなつたのは、いつからだといふ事だい』と。いはれて始めて心付き、やや安心の胸撫でて『それならたんといひませう。それではお前も、深井様と、私が中を疑ふての、この腹立ちでござんすか』『ざんすかもあるめえや。腹が立つのは当然だ』『さあそれが。真実《ほんま》の事ならもつとなれど。何の私が、あのお方と、どんな事を致しませう。なるほどお世話にやなつてゐる。それはお前も知つての通り、母さんの遺言ゆゑ』『ふむこれは面白い。それでは叔母貴《をばさん》が、己れが女房のその内から姦通《まおとこ》せいと教えたかい』『なるほどこれは、よいいひ抜け。死人に口なし、死人こそ、よい迷惑だ』と冷笑ふ『またそんないひ掛り、しまいまで聞いたがよい。それでは何かえ、この私が、お前の家に居た時から。深井様と懇したといふのかえ』『知れた事だ。さうでなけりやあ、己れだつて、離縁《さ》つた女房に、姦通《まおとこ》呼ばはりするもんけい。己れから暇を取つたのも、そこらからの寸尺《さしがね》と、遅幕ながら、気が注くからにやあ、どうでも捨ててはおかれない。これだけいつたらもう好からふ。さあどうする』と。再びもとの、怖い顔して詰め寄るに。さてはあの吉蔵めが、恋の叶はぬ意趣晴し、ある事ない事告げ口して。怒らしたものならむと、瞬く隙に見て取つて。もうこの上は詮方がない。弁解《いひわけ》しても無益《むだ》な事。それよりは、ここ一寸を遁れての、分別が肝要と。思案を極めて、調子を替え『あい、それで合点がゆきました。いひたい事は、たんとあれど。証拠のない事いふたとて、よもやうむとはいはんすまい。なるほど私が悪かつた。悪かつたとしておきまする。そこでお前はどうあつても、深井の旦那を殺す気かえ』『殺さいでどうするものか。今夜は昼から、お前の家に、遊んでゐるといふ事まで、己れはちやんと知つてるよ』『なるほどさうでござんせう。それなら私もお前に相談。手引をさせておくれかえ』『へんそんなお安直《やす》い手引なら、こちらからお断りだ。手引が何だか恠しいもんだ』と。いふ顔じつと、照る月に、雪より白い顔見せて。解けた眼もとに、男の膝。我からわざと身を寄せて『疑ひ深いは女子の性男子がさうではなるまいぞえ。かうして二人が居るところを、人が見たらば、真実《まこと》の恋か、虚偽《うそ》の恋かが知れやうに。お前がそれでは曲がない。元木に勝る、うら木なしと、世間でいふのは、ありや嘘かえ。お前は知つてでござんすまい。そりやもう私が別れてから、よい慰みが出来たであろ。たまたま逢ふた、この私を、斬るの、はつるといふてじやもの。それが分らふ筈がない。さあ斬らんせ、殺して下され。おおかたどこぞの可愛い人に、去つた女房の私でも。生かしておいたら、何ぞの拍子。邪魔になるまいものでもないと、いはれさんした心中立に、私を斬るのでござんせう。さうならさうと有り体に、いふてくれたらよいものを。私にばかり難僻付けて。手引をしやうといふものを。まだ疑ふてならぬといふ、お前は鬼か蛇でござんしよ。さうと知つても、この私は、顔見りや、やつぱり憎うはない、こんな心になつたのも、思へば天の罰であろ。さあ斬つて下され、殺して下され。罰が当つて死ぬると思へば、これで成仏出来まする』南無阿弥陀仏と合はす掌《て》の、嘘か真実を試さむと。やつと声掛け、斬る真似しても。びくとも動かぬその身体は。お門違ひの義理の枷、なつても、ならぬ恋ゆゑに、身を捨鉢の破れてゆく、覚悟としらぬ助三が『心底見えた』と、手を取つて、頼む、喜ぶ顔見ては。さすが欺すも気の毒ながら、いづれ私も死にますると、心の詫びがさす素振。虚偽《うそ》では出来ぬ優しさと、心解けたる助三が『それではきつと、今晩の、十二時を合図にして』『あいあい待つてをりまする。寝間は、門から這入つての、右の八畳、雨戸を細目に中は燈りを点けておく。充分酔はせて、寝さしたら、ついした音では眼は醒めまい。障子の紙を破つて置くゆゑそこから覗いて下さんせ。私が手水に行く振りで、きつと手引を致しませう。その代はりには、お前もここで、二人までは殺さぬといふ、誓言立てて貰ひたい』『うふふ、まア怖がつてゐるのかい。かうして己れに依頼《たよ》つたからは、二人死なしてよいものか。一人は大事な大事な身体。毛ほども恠我はささぬ気だが。もし間違つて、爪でも斬つたら。おおさうだ、博奕冥利に尽きるとしよう』『ほほ博奕冥利もをかしなものだが、お前はそれが第一ゆゑ、そんならさうとしておかふ。きつと違えて下さんすな。もしもそれが嘘ならば、生き代はり死に代はり、たんとお前を怨むぞえ』『七くどいから、もうおきねえ。己れが仲間は義が堅い。昔の侍そこのけだ。かういふ事に、二言がありやあ、誰も取合ふものはない。何なら誰か証拠に立てよか』『なんのそれに及びましよ。それで私も安心しました。そんならもう行くぞえ』と。行きかけて立戻り、思ひ出したる懐中物『ここに少しはお紙幣《さつ》[#「紙幣」は底本では「紙弊」]があるゆゑ、一杯飲んで下さんせ。まだ十二時には三時間《みとき》もあらふ。元気を付けたがよいわいな』と。渡すを、にいやり受取りて『さすがは女房だ、有難てえ。そこまでお気が注かれふとは、思はなんだに忝《かたじけ》ねえ。じやあ行つて来るぞ。待つぞえ』と。離れ離れになる影を。その人ゆゑには惜しまねど。あちらへ行くだけ羨しい。これが自由になるならば、私もあつちの方角へつい一走り。かういふ訳で死にまする。それは嬉しい、忝ない。確かに生命は受取つたの、お詞聞いて死なふもの。これ程までに思ふ気が、後で知れるか、知れぬやら。一筆書いておくつもりも、片便りでは、たんのう出来ぬ。縁《えにし》の糸も片結び、かたみに結ぶ心でも、一ツ合はせて結ばれぬ、西片町のその名さへ、今はさながら恨めしやと。千々に砕くる、うき思ひ。身を八ツ裂の九段坂。百千段に刻んでも、足の運びは、はかどらぬ。もどかしさよと振向けば。人の歎きを知らぬかの、町の賑ひ、電燈の、ほめきは神田ばかりかは。日本橋さへ、京橋さへ、そこと見えるに、片町は、なぜに見えぬぞ。お邸が、せめて湯島の丘ならば、ここから名残惜しめうもの。上野の森に、用のない、松は見えても、お邸の、お庭の松がなぜ見えぬと。なくなく行けば、畏《かしこ》かる、神の御前の大鳥居。ここは恐れの、横道へ、たどり入るこそ不便なる。
第十回
その翌朝未明、太田が家にては、下女の報告《しらせ》に、夫婦が驚き『なにお園様が殺されてござるといふのか。馬鹿め、貴様はどうしてゐた』と。叱りながらも半信半疑。見れば真実や、縁側の、雨戸も障子も開け放し。足の跡こそ、付いて居れ。死骸は立派な覚悟の死。襟|寛《くつろ》げて、喉笛に、柄《つか》までぐつと突込んだ、剃刀はお園がもの。これが自殺でなからふかと。まだここのみは、明けやらぬ、昨宵のままの燈火《あかり》、掻き立て見れば、口の内、何やら含んだものがある。検死の邪魔にならふか知らぬが、自殺他殺も知らいでは、深井様へのいひわけが、済まぬ済まぬの一心に。口押し破つて、引出せば、子細は何やら、白紙を、くるくる巻いたその中から、からりと見慣れぬ、指輪が一ツ。これはどうじやと呆れて立つ。夫婦の前へ。あたふたと、下女が持て来る、文二通。これが私の寝床の下に。今までちつとも知らなんだを、またも叱つて下さるなと。もぢもぢするを、引つたくり。見れば、一ツは様参る。深井の旦那へ、園よりの、外には太田夫婦宛。当つて砕けた白玉が、何ぞと人の知らぬ間に。露と消えたる身の果てを。金剛石《ダイヤモンド》の指輪と共に、とりとり人の噂しぬ。(『文芸倶楽部』一八九七年二月)
底本:「紫琴全集 全一巻」草土文化
1983(昭和58)年5月10日第1刷発行
初出:「文芸倶楽部」
1897(明治30)年2月
※疑問箇所の確認にあたっては、「明治文學全集 81 明治女流文學集(一)」筑摩書房、1966(昭和41)年8月10日発行を参照しました。
入力:門田裕志、小林繁雄
校正:松永正敏
2004年9月20日作成
2005年10月31日修正
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