ちへとお園を呼びて、尋常《よのつね》ならぬ涙声『私は折入つて、お前に頼みたい事がある。何と聞いておくれかえ。知つての通りの私の身体、此邸《ここ》で生れた身のふしよう。旦那に愛想尽かされては、行くべき処のない身の上。生きてお邪魔をしやうより、我から死んで見せましたらば。せめて一度や、半分の、回向位はして貰やふと、はかない事を、空頼み。明日ともいはず、たつた今、私は死んで見せるぞや。私が死んだその後では、誰に遠慮が何要らふ。今宵からでも改めて、私の跡へ直つてたも。さすれば先祖もお喜び、世間もお前を誉めるであろ。もしも情けの道知らずが、お前と旦那を譏つたならば、私の頼みといへばよい。その代はりには夢にでも、思ひ出した時あらば、無縁の仏と思ふてなり、香華だけは手向けてや』さらばとばかり立上る。あまりの事に、威しぞと、知つても、さすが転動して。まあ何事と縋《すが》り付き『それは何を仰しやりまする。それほどまでのお腹立ち、この期に及んで、私も、未熟な言ひ訳致しませぬ。さあさあ私を、どうなりと、御存分にあそばしませ』『ほほほ、今更それは遅いぞえ。何のお前は大事な身体。私こそは要らぬもの。旦那のお心変つたからは、生存《いきなが》らえて、何楽しみ。一時も早う、死んで苦患《くげん》が助かりたい。そこ離しや、ゑゑ離さぬか』と、半狂乱の、力任せに振切りて。部屋に続きし、奥倉庫《おくぐら》の、戸を引開けて、中から、ぴつしやり。押せども突けども、開かばこそ。泣くも詑ぶるも、一人芸。ひそみ返りて音もせぬ、あまりの事の気遣はしさ。お園も思案の帯引締め『それでは奥様私は、これでお暇致しまする。私さへに居りませずば、御自害沙汰には及ばぬ事。必ず必ず御短気な事、あそばして下さりまするな。お詑はあの世で致しまする。御機嫌さまで』といひ捨てて、裾もほらほら、気もはらはら、身を飜して走り行く。様子を見済まし、倉庫の戸を、そつと引開け、立出る、鹿子の前へ吉蔵が、急ぎ足に入来り『存分甘く行きまして、お目出たう存じまする』『それはよけれど、もし死んだら、それこそ思はぬ一大事』『そこに、ぬかりはござりませぬ。たしかに左へまだ半町、跡を※[#「足へん+從のつくり」、180−11]けて見届けませう』『必ず共に死なさぬやう』『その御念には及びませぬ。拝領ものを亡くしては、第一私損分』と。鼻|蠢《うごめ》かせて、裾端折り、してこいまかせと追ふてゆく。したり顔には引替えて。鹿子はさすが女気の、空恐ろしき成行きに、なりもやせむかと気遣はしさ。重ねて追手出したいにも、広い邸に我一人、払ふた邪魔が、今更に、待遠しくも思はれぬ。

   第三回

 昼はさしもの人通り、本郷神田小石川、三区の塵に埋まる橋も。今は霜夜の月冴えて、河音寒き初更過ぎ。水道橋の欄干に、身を寄せ掛けたる一人の婦人。冷やかなる、月の光を脊に受けて、あくまで白い頸《えり》もとの、これにも霜の置くかと見えて、ぞつとするほど美麗しきを、後れ毛に撫でさせて、もの思はしげに河面を覗き込む様子に『もしお前さん、まさか身投げじやありますまいね』『知れた事さ。今時分、こんな所で、死ぬ奴があるものか』『でもお茶の水の一件から、何だかこの辺は不気味でね』『さうさ、女もお前のやうなのだと、どこであつても大丈夫だが。美《い》い女は凄いものさ』『人をツ、覚えてるから好い』と、戯れながら行く男女のあるに。じつと跡を見送りて。ほんに思へば、世はさまざまや。我は生きるか、死ぬる瀬に、立往生のこの橋を、おもしろをかしふ渡つて行く、人を羨む訳でなけれど。私も一旦夫と定めた助三さんが、真人間であるならば。たとひ始めは従妹の義理で、夫婦にされた中にもせよ。一度縁を結んだからは、見ん事末まで添遂げて、女子の道を立てふもの。あれほどまでの放埓を、私は因果とあきらめても。可愛や親の鑒識《めがね》違ひで、いかい苦労をさす事よと。父様なければ、母さんが、お一人してのお気苦労、せめて私が息ある内にと、取つて渡して下されし、三行半《みくだりはん》も、親の慈悲。まだそれだけでは安心がと、世に頼もしい旦那様に、お願ひ申して下さんしたに。やれ嬉しやとその後は、一生お仕え申す気で、お主大事と勤める内にも。あんまりな、奥様のお我儘。上を見習ふ下にまで、旦那様の御用といへば、跡へ廻してよいものと、疎畧にするのが面憎さ。要らざるところへ張持つて、旦那の御用に気を注けたが、思へばこの身の誤りにて、思はぬ外のお疑ひ、忠義が不義の名に堕ちたも。奥様ばかりが悪うはない。どの道悲しい目に逢ふが、どふやらこの身の運さうな。それを思へばこの後とも、よしんば、生きてみた処で、苦は色かゆる、いろいろの、涙を泣いて見るばかり。泣きに生まれた身体と思へば、死ぬるに何の造作はない。やはり死んで退けやうか。いやいやいや、死ぬるといへば、奥様も、私がお邸出たからは、よも御自害はなさるまい。それに私が死んだらば、今宵の仕儀を御存じなき、旦那様のお思召。あれ程までにいひおいたに、分らぬ女子とおさげすみ。不義の罰よと、奥様の、お笑ひよりは、まだつらい。とはいふものの、もしひよつと奥様のお身に凶事があらば、さしづめ私は主殺し。手は下さねど、片時も、生きてゐられる身体でないに。どの顔下げて、おめおめと、旦那にお目に掛かれやう。それを思へば、この期に及んで、迷ふはやはりこの身の愚痴。どの道死ぬるが勝であろと。覚悟は極めても、どこやらに、この世の名残、西へ行く。月を眺めて、しよんぼりと。どこで死なふの心の迷ひは、それもあんまり気短かの、心の乱れと縺《もつ》れ合ひ。縺れ縺るる生き死にの、途は二ツを、一筋に、定めかねたる、足もとの、運びに眼を注け、気を配り、様子を覗ふ一人の男子。もうよい時分と物影を、歩み出でむとするところへ。飯田河岸の方より、威勢よく、駈け来りたる車上の紳士。何心なく女の顔、見るより車夫に声かけて、小戻りさするに、はあはツと、女は驚き透かし見て『あツ旦那様』といふままに。はつと思ひし気のはづみ。我を忘れて、河中へ、ざんぶとばかり飛び込みたり。

   第四回

 宮柱、太しく立てて、東洋を、鎮護の神と仰がるる、招魂社の片辺りに。小綺麗な黒板塀。主翁《あるじ》は太田彦平とて、程遠からぬ役所の勤め。腰弁当の境涯ながら。その実借家の四五軒ありて、夫婦が老を養ふに、事欠くべくはあらねども。実子なき身は、なまじひの、養子に苦労買はむより。金銭を孫とも子とも視て、気楽に暮そじやあるまいか、なう婆さんとの相談も、物|和《やわ》らかなる気性とて。家賃の収入は、月々に、銀行預けと、定めても。どこやら饒《ゆた》かな、生活《くらし》向き、一人二人の客人は、夜毎に絶えぬ、囲碁の友。夜の更けるのも珍らしからねば。慣れたものはこれでもよけれど。お園様はさぞやさぞ、御迷惑であらうもの。ちようど幸ひ、隣の貸家。あれを当分、御用に立てて、お食はこつちから運ばせて、夜分は、三を泊りに上げれば、万事お気楽お気儘で、御保養にならふにと。主翁が注意、行届いたる待遇《もてなし》振り。この日曜を幸ひに、拭き掃きもまあ一順、すむにはこれが第一肝要のお道具、三よお火鉢持つて行け、婆さまは茶道具揃えて上げましや、菓子器に、羊羹忘れまいと、己れは手づから花瓶を据えて。秋の名残の、菊一りん。ひちりんも御入用なら、何時なりと持たせましよ。その外何なり、かなりなものは、たくさんにござりまする。御遠慮なふ仰せられい。お淋しければ、この切戸が、これこの通り開きまする。そこがすぐに手前の前栽、縁側へは、一|跨《また》ぎでござりまする。ここから自由にお出這入り、どちらなりとも、お好きな方にお住居なされ。やれやれこれでお座敷も、ちよつと出来たと申すもの。これからは、決して決して、お気遣ひなされますな。ここがすなはち、あなたのお家、他人の家ではござりませぬ。家いつぱいに、おみ足も、お気もお延ばし下されいと。己れも延びた髯撫でて、帰る翁主と入れ違え。婆さまといふは気の毒な、五十二三の若年寄。良人ある身はこの年でも、なほざりにせぬ、身嗜《みだしな》み。形ばかりの丸髷も、御祝儀までの心かや。おめで鯛の焼もの膳『外には何もござりませねど。皆々《みんな》あちらでお相伴、まづ召上がれ』とさし出す『あれまあ、それでは恐れいりまする。いつまでも其様《そんな》に、お客待遇して戴いては、気が痛んでなりませぬ。それよりは御勝手で、お手伝ひなと致したが』と。お園の辞退を引取りて『またしてもそんな事、おむづかしい御挨拶は、もうもう止しになされませ。先夜の今日日《けふび》、お身体も、まだすつきりとはなさるまい。お気遣ひは何よりお毒、当分お任せなされませ。深井様には、いろいろと、御恩に預かる私夫婦。役に立たずの老人が、未だに御用勤まりまするも、やはりお庇陰《かげ》と申すもの。何御遠慮に及びましよ。かうしてお世話致すからは、失礼ながら、私どもは、他人様とは思ひませぬ。娘を一人設けたやうで、どんなに嬉しふござりませう。それにあなたの母御《おやご》様は、継《まま》しい中のあなた様を、この上もないお憎しみ。死なふとまでの御覚悟も、どふやらそんな御事からと、あの晩深井様からあらましは、承つてをりまする。及ばずながらこの後は、私夫婦と、申すほどのお役には立ちませねど。歴然《れつき》としたお従兄の、深井様もいらせられまする。必ず必ず御苦労はあそばしますな。ほほ私とした事が、ついお話に身が入りて、御飯のお邪魔をいたしました。さあさあ早う召上がれ。そして御飯が済みましたらば、お髪《ぐし》をお上げなされませぬか。お湯も沸《わか》してござりまする。あなたのお年齢で、お装飾《つくり》を、大義とばかり仰しやるは、よくよく御苦労ありやこそと、お心汲んでをりますれど。さうばかりでは、なほの事、お気が塞いでいけませぬ。少しなりとも、御気分の引立つよう、無理にもお身体借りまして、お装飾申して見ましたい』と。なにかにつけて、世話好きな、老人気質、あれこれと、進まぬお園を勧め立て、装飾り上げたる、髪容《かみかたち》『嬉しやこれでお美しい、玉の光が見えました。娘があらば、ああかうと、物珍しい心から、余計な世話まで焼きたがる、うるさい婆とお怒りなく。私が申しまする事も、一ツ聞いて下されますか』と。持ち運んだる紙包み、二ツか、三ツか、三ツ襲《かさ》ね『これこのお召のお襲ねは、ちよつとしたお着替えに、この銘仙が御|平常《ふだん》着。お帯も上下、二通り、お長繻絆や、なにやかと、さしづめ遁れぬ御用のものは、揃えてあげまするやうと。あの翌日《あくるひ》深井様御越しの節のおつしやり付け。それではお柄を伺ひましてと。申し上げてはみましたなれど。お耳へ入れては、要る、要らぬと、御遠慮がめんどうな、それよりは、万事よきに計らふて、お着せ申してくれとのお詞。それ故の押付けわざ。御寸法は、あの濡れた、お召しに合はせてござりまする。大急ぎの仕立と申し、老人の見立ゆゑ、柄が不粋か存じませど。これでも吟味致したつもりと。ほほ自慢ではござりませぬ。何のこれが私どもから、差し上げるものではなし。深井様のお思召、お心置きなふお召替え。さうでなうては、私が、深井様へのお約束が立ちませぬ。さあさあ早う』と、しつけ糸、とくとく着せて見ましたい。お帯をお解き申しませう。あちらへお向きなされませ。私がお着せ申しますると。勧め上手が勧めては、否といはれぬ、今の身は。着てゐるものも、借りものを、これでよいとはいはれぬ義理。とても御恩に着るからは、他人のものより、御主のものと、思ひ定めておし戴き。着替えしところへ、計らずも、切戸口より主翁の案内『かやうな処でござりまする。ともかく一応御覧を』と。小腰を屈め、先に立ち、澄を伴ひ入来るに。今更何と障子の影、消え入りたい心をも、夫婦の手前、着飾つた、身の術なさを、会釈に紛らし出迎ふるに。さても美麗し、見違えたと見とれて、ふと心付き、たしか従兄の格なりしと、思ひ出しての答礼を。どふやら可恠《おかし》な御容子と、夫婦が粋な勘違ひ。四方山話もそこそこに。
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