妻は母屋へ酒肴の準備、主翁も続いて中座せし、跡は主従さし向ひ。この間とお園は両手を支へ『何からお礼を申さうやら。取詰めました心から、後先見ずの先夜のしだら。お叱りもないその上に、冥加に余る御恩の数々。夫婦の衆まで私を、お従妹と、思ひましての手厚い待遇。どうもこれでは済みませぬ。やはり下女とお明かし下され、召使ひ同様に、致してくれられまするやう』と。いひかかるをば打消して『済むも済まぬもありはせぬ。従妹でも、何でもよい。邸に居るものといへば、かへつて不審を受けるゆえ、継母の為家出とすれば、穏やかでよからうと、思ひ付いたからの事。そこらは乃公に任しておけ。済む済まぬといひ出せば、家内の気質を知りつつも、邸に置いたが、そもそも誤り。それ故互ひに済む済まぬ、それはいつさいいはぬがよし。この后共に、汝に対してする事は、媼に対してする事なれば、乃公に礼をいふには及ばぬ。今日は幸ひの日曜なれば、この家の夫婦に、ゆつくりと、相談もしておくつもり。手芸を習ふか、縁付くか、どちらにしても、確《しか》とした談話《はなし》の纒まるそれまでは、かうして気楽に暮すがよい。たとへば二年三年でも、汝一人をかうして置くが、乃公の痛痒《いたみ》になりはせぬ。つまらぬ事に、気遣ひすな』と。今に始めぬ優しさに。はや涙ぐむお園の顔。いつの憐れに替はらねど。名もなき花の濡れ色と、さして心に止めざりし、その昨日には引替えて。よその軒端に見やればか。瞼に宿す露さへに、光り異なる心地して。今日より後は憐れさの、種を替えしも理や。富貴に誇る我が宿の、心も黒い、墨牡丹。この幾日はとりわけて、悋気の色も深みてし、その花の香に飽きし身は。ほのほの見えし夕顔の、宿こそ月を待つらめと、またいつの夜を来ても見む、心もここに兆せしなるべし。

   第五回

 今日は赤坂八百勘にて、その昔《かみ》の同窓生が、忘年会の催しありとて、澄が方へも、かねてその案内あり。午後五時よりとの触れ込なれど。お園が家出のその後は、鹿子の、僻みいつそう強く、夜歩行《よあるき》などは思ひも寄らねど。これは毎年の例会にて、遁れ難き集会《あつまり》なればと。三日前より、ちくちくと、噛んで含めた言の葉に。ふしようふしようの投げ詞。それ程御出なされたか、御勝手になさるがよい。したが五時といふのが、六時にも、七時にもなり易いは、大勢様のお集会に、珍らしからぬ事なれば。人の揃はぬその内から、お義理立には及ぶまい。ここといふのは、一時か、二時の間でござんせう。それを機会《しほ》に、横道へ、外れぬお心極まつたなら、六時過ぎから、御越と。時計の針も、何分の右と左を争ふて。もう行かねばと立上る、澄を止めて。もしあなた。ここが五分でござんすか。今からお眼が狂ふもの、乃公が時計は違《くる》ふたと、後のお詞聞かぬ為、私が合はしておきますると。ただ一分のその隙も、空《むだ》に過ごさぬ、竜頭巻。竜頭といふも恐ろしや、日高の川にその昔、蛇《おろち》となつたる清姫の、心もかうと。金色の、鱗に紛ふ、金鎖。くるくる帯に巻付けて。私の念力これこの通り、きつと覚えて、ござりませと。牙を包みし紅の唇噛んで、見送りし、その顔色の気味悪さ。ぞつと身にしむ夜嵐に。おお寒いぞと門を出し、その心地には引替えて。飲めよ、歌への大陽気。紳士揃ひも、学生の、昔に返る楽しさを。飽くまで遣つて退けやうと。星が丘とは洒落込まぬ、幹事の心、大盃で、汲めや人々、舞へ紅裙。紳士だなどと気取つた奴は、誰彼なしに肴にすると。洒落自慢の某が、浮かれ立つたるその所へ。思ひの外に遅なはりし、失敬したと入来る、澄を見るより、よい茶番と。思ひ付きの大声音。遅し遅し判官殿。何と心得てござる。今日は正五時と、先達からの案内でないか。それに今頃ぬけぬけと、どんな顔してござつたぞ。なるほど貴殿の奥方は、金満家の娘御といひ、少しも貴殿を、お踏付けになさらぬといふ貞女。あそこはあやかりもの、御来会も、遅なはる筈の事。奥方にばかりお義理立をなされるによつて。朋友《ともだち》の方は、お搆ひないじや。まだも、この中へ鼻垂らしう、これは奥が財産目録でござると、持つてござらぬだけが取り得か。総体貴殿の様な、内にばかり居る者を、蝸牛《ででむし》といふは、どうござらふ。あの蝸牛といふ虫は、どこへ行くにも、首だけちよつと出すばかり、家を背負つて歩行まするが、彼奴《あいつ》なかなか、気の利いた奴ではござらぬか。貴殿もこれからは、家の代はりに奥方をおぶつて、お歩行なされたら。天晴れ朋友への交誼も立ち、奥方へ報恩の道も、欠けぬと申すもの。一挙両全何とよい思案ではござらぬか。うわははははは、この師直《もろなほ》は、鮒侍などと、旧い摸型《かた》は行き申さぬ。当意即妙新案の、蝸牛《くわぎう》紳士は、どでござる。いざ改めて、今宵の肴に、紹介申すと。戯れて、笑はすつもりも、御念が入つては。苦笑さへ出来かぬる、この場の始末に、一坐の面々、顔見合はせて、笑止がる。中にも上坐の某が。これこれ君はどうしたものだ。またまた例の悪酔か。それも好けれど、その様に、人身攻撃に渉つては、一坐の治安、捨ててはおけぬ。衆議に問ふて、予戒令。退去さするといふ筈ながら。酔ふた酒なら、醒めもせう。醒めての上の宣告と、ここは我等が預かるから。まあ深井君坐したまへ。僕が代はつて謝罪いふ。先づ罰杯をくれたまへ、これ女ども酌せぬか。何をきよろきよろ馬鹿吉めが、山の手芸者と笑はれな。腕の限りを見てやらふ。小蝶は踊れ、駒はひけ。追付け春の柳屋糸めも、年末の吉例に、五色の息を吐かしてやらふと。さすがは老功老武者の、持ち直したる一座の興。この図を外さず、全隊が総進撃と出掛けやう。部署を極めるは、野暮の極。思ひ思ひの方面へ、突貫せよと、異口同音。散会ぞとは、いはれぬところへ、虚勢を張つて、途から、そつと、逃げて帰ぬ、粋の上ゆく粋あれど。澄は日頃|金満《かねもち》の、細君故の、逃げ足を、知つたか、知つた、遁がすまい、よし来た合点、妙々と。いひ合はさねど、四五人が、ぐるりと四方を、取巻いて。一所に行かふと眼を離さず。前から引くもの、背後《うしろ》から、押しては危険《あぶな》い。帽子が脱げた、下駄が見えぬの、大悶着。おほほまあ、お危険い、そんなにあなたなさらずとも、出口は一ツでござりまする。と女中の挨拶口々に、へい有難う、お静かにと、見送る前へ、挽き出した、四ツ目の紋の提燈は、確かに深井が抱えの腕車《くるま》と。気早き一人が声掛けて。おい君これは帰すがよい。我等は、未だに揃ひも揃ふて、辻車に飛乗りの、見すぼらしい境涯を、君だけそれでは義が立つまい。ぜひそこまでは、交際《つきあひ》たまへ。然り然り大賛成。おい車夫、奥様にさういふてくれ。今夜は旦那を一晩借りる、きつと迷子にささぬやう、明朝は、みんなで送つて行くと。忘れずにいふんだよ。ハハハハハ、さあ君これで、君が身体はこつちのもの。謝罪は我等が引受けた。よしか車夫、さういへと。右左より引張るに、引かれて行くのも本意ならねど。強ひて否まば、前刻の、恥辱を、実にする道理と。酔ふた、頭脳に、ふらふらと、足はいづれへ向きしやら。銀燭|眩《まばゆ》き小座敷へ、押据えられしと思ふ間に。奇麗な首が五ツ六ツ。しやんしやんしやんの三味の音も、いつしか遠くなる耳の、熱さに堪えず。ばつたりと、身体を畳に横霞。春の山辺の遊びかや、ほの暖かき無何有《むがう》の郷。囀る小鳥、咲く花の、床しき薫り身にしめて。ふわりふわりと、風船に、乗つたは、いつぞ。あれ山が、海も見えるは舞子に似た。この松原の真中へ、降りたら水があるかしら。咽喉が乾くと、眼を醒ませば。身はいつしかに夜着の中、緑の絹に包まれたり。南無三、これは吾家《うち》じやない。たしかこの宵、おおそれよ。衆人《みな》はどうした、あちらにか。てうどこの間と立つ袖を。もうお遅いと引留むる、女子は誰じや、汝に頼む。跡はよいやう、乃公だけは、是非に帰せと、振り切りて。門を出れば、軒毎の、行燈は、ちらり、ほらり降る、雪か霰か、あら笑止。何はいづこと、方角が分らぬながら行き行けば、赤坂見附、おおここか。つまらぬ処で夜を更かした。車夫頼むと。寒さうに、かぢけた親爺がただ一人。やつこらまかせの梶棒を、どちらへ向けます。さうだなあ、ともかく九段へ遣つてくれ。とても遠くは走れまい。そこらから乗り替えやう。はて困つたと腕車の上。薄汚れし毛布《けつと》に、寒さは寒し、降る雪に、積もつてみても知れてゐる。これから帰宅《かへ》れば三時過ぎ、寒い思ひをしたところで、ようこそお帰りなされしと、喜ぶ顔を見るではなし。冷たい蒲団は、あなたの御勝手。巨燵を入れて待つほどの、お心善しにはなれませぬ。お茶なら勝手に召し上がれ、下女はとつくに寝かせました、今を何時と思し召すと。それからちくちく時計の詮索、尖つた針で突かれても、一言いへば、二言目に。お腹が立たば、お殺しなされ、私は家の娘でござんす。去られる代はりに、死にませう。さあどうなりとして下されと、手が付けられぬに、寝た振すれば。引起こされて、窘められるは知れた事。これ程寒い思ひをして、怒られに帰《い》ぬ馬鹿もない。同じ苦情を聞かふなら、これからどこぞで一寝入。明日の事にしやうかしら。いやそれも悪からふ。薪に油を濺《そそ》ぐは罪、鹿子《あれ》は鹿子《あれ》でも、その親に、受けた恩義は捨てられぬ。はて困つた、三合の、小糠はなぜに持たなんだと、思はず漏らす溜め息に。ヘヘヘヘヘ旦那御退屈でござりませう。若い時分は、随分と、力のあつた男でも、年にはとんと叶ひませぬ。しかしもうそこに招魂社が見えますると。車夫の詞に、おおそれよ。お園は何と、身の上を思ひ続けて、泣いてもゐやう。乃公を力と頼んでも、滅多に訪ふてやられぬ身体。かういふ時に廻つて行かば、宅へも知れず、都合であれど。深夜に行かば、太田の手前。それは脇から這入るとしても、お園のおもわく何とであろ。いやいやかれに限つては、乃公を真底主人ぞと、崇《あが》むればこそ、勝気のかれが、もの数さへにいひかねて、扣《ひか》え目がちの、涙多。ああいふ女子でない筈が、ああなるほどの憐れさを、知りつつ捨てては置かれまい。やはりちよつと尋ねてやろか。たしかこの辻、この曲り、この用水が目標と。幌の中よりさし覗く、気勢に車夫が早合点。こちら様でござりまするか、それではお灯を見せませうと、頼みもせぬに、提燈持ち。案内顔の殊勝さを。無益《むだ》にさすのも不憫とは、どこから出し算用ぞや、ふと決断の蟇口開けて、そをら遣らふと、大まかに、掴み出したる銀《しろがね》は、なんぼ雪でも多過ぎまする。お狐様じやござりませぬか。人間様では合点がゆかぬ、夥しいこのおたから。せめて孫めに見せるまで、消えてくれなと、水涕を、垂らして見ては、押し戴き、戴いてゐるその隙に。澄が影は、横町へ、折れて、隠れて、ほとほとと、板戸を叩く音のみ聞こえぬ。

   第六回

 まあ旦那様、どうあそばしたのでござりますと。訝るお園の不審顔。さこそと澄はにこりとして『よいから跡を閉めておけ。太田へ知れては妙でない』静かにせよと、手を振りて、勝手は見知つた庭口より、お園の居間と定めたる、一間へ通るに、お園の当惑『まあどう致さう、こんなところを御覧に入れては、誠に恐れいりまする』と。外には坐敷といふものなき、空屋の悲しさ、せめてもと、急いで夜具を片付けかかるを『なに搆はぬ、それはさうしておくがよい。今時分来るからは、失礼も何もない。それよりは、その巨燵には火があらふ。寒い時には何より馳走。まづ這入つて温らふ』と。平素は四角なその人が、丸う砕けた炭団の火『掻き分けるには及ばぬ及ばぬ、これで充分暖かい。ああ寒かつた』と足延ばす『それではせめてこの火鉢に、お火を起こして上げましたいにも。火種子は、毎朝太田から、持つて参るを心当。焚付けもござりませぬ、不都合だらけをどうしたもの』と。ひいやり、冷たい、鉄瓶の、肌を撫でての歎息顔『茶などは要らぬ、止しにせい。たしか太田の婢《おんな》とやらが、毎晩泊りに来るとか聞いたが、それは今夜も来
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