ぞ大事と、笑ひで受け、振離す手も軽やかに『ほんにお前も人の悪い。私の馬鹿をよい慰み。さんざん人を上げ下げした、挙句の果ての、悪ふざけ。この上私を、かついでおいて、笑ふつもりと見えました。もしこれからはお前のいふ事、私や真面目に聞かぬぞえ』『真面目でも、戯談でも、己ればかりは、真剣』と、取る手を、つつと引込めて『それ見た事か、私が勝つた。もう瞞されはせぬほどに、止しにして下さんせ。人が見たら笑はふに』と。わざと空々しく外す、重ね重ねの拍子抜けに。吉蔵いよいよ急き込みて『これお園さん、どうしたものだ。ここまで人を乗込ませて、今更笑ふて済まさうとは、太いにも程がある。その了簡なら、この己れも、逆に出る分の事と、さあ野暮はいはないから、まあ温和《おとな》しくしてるが好い。随分共にこの后は、力になつてやらふぜ』と。あはや手込に、なしかねまじき血相に。お園も今は絶体絶命。怒らば怒れと突離し、あれと一声逃げ惑ふを。玄関口まで追詰めて、遣らじと、前に立塞がる。隙を見付けて、突退くる、女の念力、吉蔵は、たぢたぢたぢと、式台に、尻餅搗いて、づでんどう。これはと驚くお園を眼掛けて、己れ男を仆したなと、飛びかからむづその刹那。がらがらがらと挽き込だる、人力車《くるま》は旦那か、南無三と、恠我の振りして畏《かしこま》る。吉蔵よりもお園が当惑。ちやうどよいとこ、悪いとこ、奥様ならば、よいものを、旦那様とは、情けなや。悲しやこれがどうなると。胸は前后の板狭み。破《わ》れて死んだら助かろにと、ただ束の間の寿命を怨みぬ。

   第二回

 旦那といふは、三十一二の男盛り。洋行もせしといふだけありて、しつくりと洋服の似合ふ風采。身丈高く、肩幅広く、見栄《みば》えある身体に、薄鼠色の、モーニングコート。逼《せま》らず、開かぬ、胸饒かに、雪を欺く、白下衣、同じ色地模様の襟飾り。どこに一点汚れのないが、つんと隆い鼻の下の、八字の瑠璃と、照り合ひての美麗《うつく》しさ。これだけにても一廉の殿振りを、眉よ眼と、吟味せむは。年若《わか》き女子に出来まじき事ながら。お園は、この春以来、幾度かに偸み見て。女子の我のさまでにはあるまじきが、卑しき身ながら晴れがましく。憶へば十年のその昔、旦那様まだ角帽召しませし頃。御養家のお気詰りなればとて、をりふし我が方へ入らせらるるを。母様の有難がりたまひ。おすしよ、団子と、坊ちやま待遇《あしらひ》。我はそのお給仕に立ちて、お土産の人形様戴くが、嬉しかりし外、お耻しとは知らざりし身の、今更ながら浅ましく。今はさながら御別人の旦那様なれや。お立派なと思ふにつけ、お優しやと思ふにつけ、これでは奥様のお嫉妬あそばすものもと、この春以来、よそ事の御|縺《もつ》れでは、まんざら奥様にお道理つけぬではなかりし身も。我が事となつては、さう悠長な量見も出ず。覚えなき身を疑ひたまふ奥様は、真《まこと》に真にお怨めしけれど。旦那様は、お気の毒とも、勿体なしとも。たとへば、潦水《にわたずみ》に影やどす、お月様踏んだればとて、こんな心地はせまいものと、歎く我が身の不運さは、これに限りて、あやかりものとも思はれる、妙な心地もそれは昨日までの事。今は証拠と頼むべき吉蔵を、思ひの外に怒らせたれば、どんな告げ口しやうも知れず。さらでは、我を試さむとての、奥様のお外出、それといひ、これといひ、心にかかる事のみなるに。あやにくなる旦那のお帰宅《かへり》。一時の難は遁れても、遁れ難きはこの難儀。ああ何となる事やらと。思案に余る仲の間を、幾度かさし覗き。おおそれそれお召し替えは揃えてあれど、まだお帰宅はと油断して、お煙草の火は入れてない。これはどうしたものやらと。し慣れた御用も、今日こそは、迂濶にお居間へ、伺ひ難き身の遠慮。苦しい時の神頼み、悪魔でも大事ない。吉蔵さん吉蔵さんと呼んではみたれど。お長屋へ引下り、返事もせぬ意地悪さ。それもその筈、ああもどかしや、早う奥様帰らせたまへ、お客様でも来てほしや。南無天満宮、天神様も、俄なる信心の、胆に銘する柏手は、ここならぬ、奥の方。ぱちぱちぱちと、鳴るはお召しか、はあ悲しや、救はせたまへを口の裡。おづおづと伺へば。茶を一杯と仰せらるるに、お煙草盆も取添えて、なるたけ手早くさしあげつ、もう御用はと下り際。ちよつと待てとのお詞に、またもや胸はどきりとして、敷居際に畏りぬ。澄は悠然として、紫檀の机に憑《よ》りかかり、片手に紙巻《シガー》を吹かしながら『奥はどこか行つたのか』『はい滝の川へと仰しやいまして』『吉蔵は居たやうだの』『はい、ただ今まで起きてをりましたが、やはり気分が、勝れませぬと見えまして、部屋へ下つて居りまする』『さうか、それはてうどよいところ、汝《そなた》に話す事がある』と。仰面《あをのい》て、例の美麗しき髭を撫で上げ、撫で下ろし、幾度か沈吟の末『誠にどうも、気の毒な訳ではあれど、近い内、邸を出てはくれまいか』と。いひ放ちたる澄の顔には、みるみる憐れみの色動けど。頭を下げたるお園には、声なき声の聞き取れず。はつと思ふか、思はぬに、はや先立ちし、涙の幾行。これでは済まぬも、飲込んで、はいとばかりは、潔く、いひしつもりも、唇の、顫かかるに咬みしめて、じつとうつむく、いぢらしさ。澄は見るに堪えかねて、わざと瞳光《ひとみ》を庭の面に、移せば折しも散る紅葉、吹くとしもなき夕風に、ものの憐れを告げ顔なり。

 表門《おもて》の方には、奥方鹿子、忍びやかなる御帰宅《おんかへり》。三十二相は年齢の数、栄耀の数の品々を、身にはつけても、埓もない、眼鼻は隠れぬ、辛気さに、心の僻みもまたひとしほ。色ある花の一もとを、籬に置くのは気がかりな。床のながめとならぬ間に、どこぞへ移し植ゑたしの、心配りや、気配りも、空《あだ》に過ぎるも小半歳。思へば長い秋の夜の、苦労といふはこれ一ツと。添寝の夢も、団《まどか》には、結びかねたるこの頃に、深い工《たく》みの紅葉狩。かりに行て来て、帰るさの、道はさながら鬼女の相。心の角を押隠す、繻珍の傘や、塗下駄に、しやなりしやなりとしなつくる。途中からのお歩行《ひろひ》は、いつにない図と、二人の女中。訝りながら御門を這入る、まだ四五間の植込みを、二歩三歩と思ふ間に。さしかかつたる仰せ言。あれもこれも、急ぎの買もの、忘れて来たに、気の毒ながら、一走り、ついそのままで行て来てとは。ほんにほんにお人遣ひ、あられもないとお互ひに、顔見合はしても、逆らえぬ、お主の威光に、余儀なくも、西と東へ出て行く。様子を覗ふ吉蔵は、かねてその意や得たりけむ。御門脇なる長屋を出て、木立の影に蹲居《うづくま》るを。鹿子は認めて機嫌よく『おおそこに居やつたか。定めて旦那はもうお帰宅、どんな様子ぞ、見て来てたも。機会《おり》が好ければ、直ぐにも行く』と、いふも四辺《あたり》を憚る声。吉蔵は頭を掻き『それは万々、心得てをりまする。が奥様、今の先まで、それはそれは舌たるい。私でさへ業が沸《に》えて、じだんだ踏んだお迎ひが、これでてうど三度目でござりまする。同じ事なら、あんなとこ、お眼に懸けたふござりましたに。今はどうやらお幕切れ。惜しい事を』と残念顔。鹿子はきよろりと眼を光らせ『それを今更いふ事か、その為の汝《そち》なれば、私が見たも同じ事。それは跡でも聞かふから、それよりは、今の手筈を、早う早う』と急立《せきた》つる『へいへい宜しうござりまする。それでは奥様しばらくここに。私はお先へ参つて御様子を』『ああさうして』と。主従が、うなづき囁き、こつそりと、なほも木立の奥深く、奥庭までも忍び行く。

 かかる工《たく》みのありぞとも、知らぬ澄は、己が名の、澄も、すまぬ心から、自づと詞も優しげに『なあに、邸を出すといへばとて、それでもつて、どこへでも行けといふ意味ではない。そこは少しも案じぬがよい。媼にはいろいろ世話になつた訳でもあり、また頼まれても居る事なれば、どんな事があらふとも、汝《そなた》の保護を忘れはせぬ。だがこの頃のやうな都合では、このまま永く邸に居るは、汝の身の為にもならず、また乃公《おれ》も、妙でないやうに、考へる処もあるなれば、いつそ外家《ほか》へ行つてくれた方が、かへつて世話がしよからふと、思ひ付いたからの事。もつともその外家といふ事もだ。下女に行くといふやうな事では、前途の見込みの立たない訳。さうかといつて、どこへでも縁付く。その危険は既に知れても、をる事なれば。追つて相応な処のあるまで、何か後来の為になる手芸でも、覚えてみる事にしては、どんなものか。実は乃公も最初から、さういふ考案《かんがえ》もあつたのなれど。忙しい身体ゆゑ、つい打遣つておく内に、かういふ仕儀になつて、誠にどうも気の毒であつた。しかしこれがてうどよい機会であるから、ここで一ツその辺の事も、考へておくが好からふ。とはいふものの、さし当つて、何を習はふといふ、考へも付くまいし、乃公もまたさういふ事には、至つて疎い方であるから、その相談は後日《のちのち》の事として、ともかくさしづめ、行くべき処を頼んで遣らふ。それにはてうど、よい処、汝の顔は知らぬから、邸に居たといふには及ばぬ。縁家の者としておくから、乃公が手紙を持つて行つて、万事を頼むといへばよい。乃公もその内尋ねて行つて、この後の事はいつさい万事、その者の手をもつて世話をさす事にするから、少しもその辺は心配をせぬがよい。それでよいといふ事なら、明日にも何とか都合よくいつて、汝の方から、邸を出る事にしてくれ。これは、ほんの当分の手当だ』と。いく片《ひら》の紙幣、紙に包んで、投げ与へ、ついでに手紙も渡して置くぞと。残る方なきお心添へ。なに暗からぬ御身をば、はや、いつしかにほの暗き、障子の方に押向けて、墨磨りたまふ勿体なさ。硯の海より、山よりも、深いお情け、おし載く、富士の額は火に燃えて。有難しとも、冥加とも、いふべきお礼の数々は、口まで出ても、ついさうと、いひ尽くされぬ、主従の、隔ては、たつた、一ツの敷居が、千言万語の心の関。恐れ多やの一言の、後は涙に暮れてゆく、畳の上に平伏《ひれふ》して、ここのみ残す、夕陽影。顔の茜も、まばゆげなる、背後《うしろ》の方に、さらさらと、思ひ掛なき衣《きぬ》の音『たいそう御しんみりでございますねえ』と、鹿子のつつと入来るに。はつと狼狽《うろた》え立上り『あ奥様でござりまするか』とどきどきとして出迎ふる。お園をきつと睨み付け『園何も私が帰つたとて、さうあはてて、逃げるにも及ぶまい。まあそこに居るがよい』と。澄とは、膝突合はさぬばかりに、坐り『園お前は真実に忠義ものよ。私の留守には、なにもかも、私の役まで勤めてくれる。お前の居るのに安心して、今頃までも、うかうかと、久し振で遊んで来ました。たんとお前に礼いはふ。とてもの事に明日からは、私に隠居をさせてくれて、家の事はいつさい万端、お前が指揮《さしづ》するやうに、旦那様へお前から、お願ひ申しておくれでないか。ね旦那様さう致した方が、あなた様も、お宜しいではござりませぬか』と。はやその手しほでも押さえしかの権幕なり。例の事とて、澄は物慣れたる調子『ハハハハつまらない。何がそれ程腹が立つか。馬鹿馬鹿しい』『はい、どうせ私は、馬鹿に相違《ちがい》はござりませぬ。奉公人にまで、蹈付けられるのでござりますもの』『はあて困つた。さうものが間違つては』『大きにさようでござりまする。あなたは少しも、間違つた事をあそばさぬゆゑ』『ハハハハまあ落ち着いて考へるがよい。園用事はない。あちらへ行け』『いゑまだまだ私が申す事がござりまする』と。いひ出してはいづれ小半|※[#「日+向」、第3水準1−85−25]《とき》と、澄も今はお園の手前『おお忘れてゐた、夕刻までに、行かねばならぬ処があつた』と。早々の出支度を。いつもは容易に許さぬ鹿子も。今日の敵は本能寺、園さへ擒《とりこ》にしたならばと。良人の方には眼も掛けず、落ち着き煙草二三服、何をかきつと思案の末。燈火《あかり》を点けてと、お園を立たせ。つと我が部屋へ駈入りて、取出したる懐刀。につと笑ふて、右手に持ち、こちへこ
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