と、吉蔵、ほくほくうなづきて『それはいふだけ野暮の事。お前がさういふ了簡なら、己れもしつかり腰を据え、一番肩を入れてもみやう。それには、何の造作もない事、己れが腹にある事なれど。いよいよさうと極めるには、ちつと掛合ふ事がある』と。わざわざ立つて、水口の、障子をぴつしやり、しめ来り、極めての小声には『実お前だから、いふんだが。己れはこれまで、奥様の、探偵《いぬ》といふ訳で、三年以来、別段の、手当を貰ふてゐるのだから、今日とてもその通り。己れから証拠を、名乗つて出ずとも、直ぐ、どうだつたと、聞かれるに違ひはない。そこでもつて、ある事にせよ、ないにせよ。あの奥様の、探つてゐる腹へ、はまるやうにいひさへすれば。それはよく知らしたと、まあ、どつさり、御褒美に、有付けやうといふもんだ。それにどうだ。いや、さういふ容子は少しもござりませぬ。それは全くあなた様の、思し召し違ひでと、いつた日には、どうだらふ。安心しさうなものだが、さうはゆかぬ。直ぐ己れが、抱き込まれたであるまいかと、気が廻るのはお定まり。どこのだつても嫉妬家《やきもちや》といふものは、たいがいさうしたものだわな。焚付けて、焼かせる奴を、とかく有難がるものよ。お前とてもその通り、今に好いた亭主を持ちやあ、やつぱりその組になりさうだ。あハハハ』と高笑ひ、気軽く笑へど、軽からず、持込む調子は、重々しく『さういふ都合もある訳なれば、これはよほど、余徳がなくては、埋まらない役廻り。そのところは万々承知だらふか。えお園さん、お園坊。礼はどうするつもりだい』と。味に搦んだ詞のはしばし、いはぬ心を眼にいはす、黄色い声の柄になき、素振りはさうと勘付けど。たやすく解きて、ともかくも、この場を事なく済まさむと、お園は一向気の注かぬ振り『ほほほほ、お前さんにも似合はない。野暮に御念がいりまする。たくわが私の事なれば、碌な事も出来まいなれど。少しばかりは、奥様に、お預け申したものもあり。その内どうとも都合して、出来るだけのお礼は』と。ぬからぬ答に、吉蔵も、こ奴なかなか喰らえぬと。たちまち地鉄を出して見せ『とぼけちやいけない、お園さん。己れも男だ、銭金づくで、お前の、おさきにや遣はれない。注込めといふ事なら、金銭《かね》はおひおひ注ぎ込むが。先づ今日のところでは、働きだけを持参にして、礼はかうして貰ひたい』と。無体の所為に、憤然とはせしが。ここぞ大事と、笑ひで受け、振離す手も軽やかに『ほんにお前も人の悪い。私の馬鹿をよい慰み。さんざん人を上げ下げした、挙句の果ての、悪ふざけ。この上私を、かついでおいて、笑ふつもりと見えました。もしこれからはお前のいふ事、私や真面目に聞かぬぞえ』『真面目でも、戯談でも、己ればかりは、真剣』と、取る手を、つつと引込めて『それ見た事か、私が勝つた。もう瞞されはせぬほどに、止しにして下さんせ。人が見たら笑はふに』と。わざと空々しく外す、重ね重ねの拍子抜けに。吉蔵いよいよ急き込みて『これお園さん、どうしたものだ。ここまで人を乗込ませて、今更笑ふて済まさうとは、太いにも程がある。その了簡なら、この己れも、逆に出る分の事と、さあ野暮はいはないから、まあ温和《おとな》しくしてるが好い。随分共にこの后は、力になつてやらふぜ』と。あはや手込に、なしかねまじき血相に。お園も今は絶体絶命。怒らば怒れと突離し、あれと一声逃げ惑ふを。玄関口まで追詰めて、遣らじと、前に立塞がる。隙を見付けて、突退くる、女の念力、吉蔵は、たぢたぢたぢと、式台に、尻餅搗いて、づでんどう。これはと驚くお園を眼掛けて、己れ男を仆したなと、飛びかからむづその刹那。がらがらがらと挽き込だる、人力車《くるま》は旦那か、南無三と、恠我の振りして畏《かしこま》る。吉蔵よりもお園が当惑。ちやうどよいとこ、悪いとこ、奥様ならば、よいものを、旦那様とは、情けなや。悲しやこれがどうなると。胸は前后の板狭み。破《わ》れて死んだら助かろにと、ただ束の間の寿命を怨みぬ。

   第二回

 旦那といふは、三十一二の男盛り。洋行もせしといふだけありて、しつくりと洋服の似合ふ風采。身丈高く、肩幅広く、見栄《みば》えある身体に、薄鼠色の、モーニングコート。逼《せま》らず、開かぬ、胸饒かに、雪を欺く、白下衣、同じ色地模様の襟飾り。どこに一点汚れのないが、つんと隆い鼻の下の、八字の瑠璃と、照り合ひての美麗《うつく》しさ。これだけにても一廉の殿振りを、眉よ眼と、吟味せむは。年若《わか》き女子に出来まじき事ながら。お園は、この春以来、幾度かに偸み見て。女子の我のさまでにはあるまじきが、卑しき身ながら晴れがましく。憶へば十年のその昔、旦那様まだ角帽召しませし頃。御養家のお気詰りなればとて、をりふし我が方へ入らせらるるを。母様の有難がりたまひ。おすしよ、団子と、坊ち
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