ツ、いはふが。まことお前が朋輩なら、なぜいつか中、奥様が、吉蔵をといつた時、お前は、かぶりを振つたんだよ。それから聞かして貰ひたい』『ほほ改めて、何ぞいの。そんな事も、あつたか知らぬが。私の身上も知つての筈。もう嫁入りは懲りたゆゑ、一生どこへも行かぬつもり。お前に限つた事ではない』『そこでお妾と、河岸を替へたであるまいか』『おほかたさうでござんせう。さういふ腹でいはれる事に、いひ訳をする私じやない。窘《いぢ》めて腹が癒る事なら、なんぼなりとも、窘めなさんせ。どふせ濡衣着た身体。乾さうと思へば、気も揉める。湯なと水なと掛けたがよい』と。思ひの外の手強さに、吉蔵たちまち気を替えて『ハハハ、さう怒られては、談話《はなし》が出来ぬ。今のは、ほんの戯談《じやうだん》さ。邸に居てさへ眼に立つ標致を、人力車夫《くるまひき》の嬶あになんて、誰が勿体ない、思ふもんかといつたらば、また御機嫌に障るか知らぬ。それはそれとしたところで。お前の旧《もと》の亭主といふ、助三さんといふ人にも。この春以来、さる所で、ちよくちよく顔を合はす己れ。未練たらたら聞いても居る。まさかに、そんな、寝醒めの悪い事は出来ぬ。あれは、ほんの、奥様の、一了簡でいつたといふ、証拠はこれまで、いくらもあらあな。六十になる、八百屋の、よたよた爺《おやじ》から、廿歳にしきやならない、髪結の息子まで、およそ出入りと名の付く者で、独身者とある限りは。奥様の悋気《りんき》から出る、世話焼きの、網に罹つて、誰一人。先方《さき》じや知らない縁談を、お前の方へ、どしどしと、持込まれない者はないので、知れてもゐやう。己れもやはりその数に、漏れなかつたは、有難迷惑。とんだ道具に遣はれて、気耻しいとこそ思へ、それを根に持つ、男じやない。その証拠には、お園さん、今日はお前の力にならふ、すつかり、苦労を打明けな。隠すたあ、怨みだぜ』と、手の裏返す口上に、気は許さねど、張詰めし、胸には、胼《ひび》の入り易く。じつとうつむく思案顔。沈黙つてゐるは、しめたものと、吉蔵膝を前《すす》ませて『そりやあ、己れも知つてるよ。いくら奥様が、どんな真似して騒がうとも。真実お前が旦那を寝取る。そんな女子でない事は、それは、己れが知つてゐる。だが此邸《ここ》の奥様の嫉妬ときては、それはそれは、烈しい例もあるんだから、今日は、よほど大事な場合。またここで失策《しくじ》つては、どんな騒ぎが、出やうも知れぬ。その代はりにはまたこの瀬戸を、甘《うま》く平らに超えさへすれば、この間からの波風も、ちつと静かにならふといふもの。悪い事はいはないから、今日はよほど気を注けな』と。善か悪か、底意は知らず。ともかく同情ありげなる、詞にお園も釣出され『それはさうでござんする』『が詮方がないから、沈黙つてゐるといふんかい。それでは己れが、註を入れて見やうか』と。いよいよ前へ乗出して『一体全体奥様の、今日の外出が、奇体じやないか。いつもは旦那と御一所か、さなくば朝を早く出て、退庁前には帰るのが、尻に敷くには似合はない、お定まりの寸法だに。今日に限つて、出時も昼后、供は一婢《ひとり》を、二婢《ふたり》にして、この間の今日の日に、お前ばかしを残すのは、よほど凄い思わくが、なくては、出来ぬ仕事じやないか。これは、てつきり、お前と旦那を、さし向ひにしたところへ、ぬつと帰つて、ものいひを付けるつもりと睨んだから、ここは一番男になつてと。頼まれもせぬ、心中立て。無理さへすりやあ、行かれる身体を。まだ歩行《ある》かれぬと断つて、今日一日を、当病の、数に入れたは、誰の為。みすみす災難着せられる、お前の為を思へばこそ。しかし大きに、大世話か知らぬ。さういふ事なら、頼んでまでも、証拠に立たせて、くれとはいはぬ。お前の心任せさ』と。妙にもたせ掛けられては、お園もさすが沈黙つて居られず。気味悪けれど、当座の凌ぎ、頼んでみむと、心を定め『さういふ事でござんしたか。さうとは知らず、ついうつかり前刻《さつき》のやうなこと言ふたは、みんな私が悪かつた。堪忍して下せんせ。知つての通りの私の身体、身寄りといふては、外になし。やうやくこの邸の旦那様が、乳兄妹といふ御縁にて。この春母さんが亡くなる時、頼《ねが》ふて置いて下さんした。そればつかりで、この様に、御厄介になつてをりまするなれば。さうでなうても術ない訳を、この中からの私が術なさ。一季半季の奉公なら、お暇《いとま》を願ふ法もあれ。そんな事から、お邸を出されうものなら、それこそは、草葉の影の母さんに、何といひ訳立つものぞ、死んでも済まぬ、この身体と思案に、あぐんだ、その果ては、つい気が立つて、あんな言《こと》。憎い女子と怒りもせず、よういふて下さんした。そんなら吉さん、今日のところは、証拠に立つて、おくれかえ』と。頼むは、もとより思ふ坪
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