来ぬ優しさと、心解けたる助三が『それではきつと、今晩の、十二時を合図にして』『あいあい待つてをりまする。寝間は、門から這入つての、右の八畳、雨戸を細目に中は燈りを点けておく。充分酔はせて、寝さしたら、ついした音では眼は醒めまい。障子の紙を破つて置くゆゑそこから覗いて下さんせ。私が手水に行く振りで、きつと手引を致しませう。その代はりには、お前もここで、二人までは殺さぬといふ、誓言立てて貰ひたい』『うふふ、まア怖がつてゐるのかい。かうして己れに依頼《たよ》つたからは、二人死なしてよいものか。一人は大事な大事な身体。毛ほども恠我はささぬ気だが。もし間違つて、爪でも斬つたら。おおさうだ、博奕冥利に尽きるとしよう』『ほほ博奕冥利もをかしなものだが、お前はそれが第一ゆゑ、そんならさうとしておかふ。きつと違えて下さんすな。もしもそれが嘘ならば、生き代はり死に代はり、たんとお前を怨むぞえ』『七くどいから、もうおきねえ。己れが仲間は義が堅い。昔の侍そこのけだ。かういふ事に、二言がありやあ、誰も取合ふものはない。何なら誰か証拠に立てよか』『なんのそれに及びましよ。それで私も安心しました。そんならもう行くぞえ』と。行きかけて立戻り、思ひ出したる懐中物『ここに少しはお紙幣《さつ》[#「紙幣」は底本では「紙弊」]があるゆゑ、一杯飲んで下さんせ。まだ十二時には三時間《みとき》もあらふ。元気を付けたがよいわいな』と。渡すを、にいやり受取りて『さすがは女房だ、有難てえ。そこまでお気が注かれふとは、思はなんだに忝《かたじけ》ねえ。じやあ行つて来るぞ。待つぞえ』と。離れ離れになる影を。その人ゆゑには惜しまねど。あちらへ行くだけ羨しい。これが自由になるならば、私もあつちの方角へつい一走り。かういふ訳で死にまする。それは嬉しい、忝ない。確かに生命は受取つたの、お詞聞いて死なふもの。これ程までに思ふ気が、後で知れるか、知れぬやら。一筆書いておくつもりも、片便りでは、たんのう出来ぬ。縁《えにし》の糸も片結び、かたみに結ぶ心でも、一ツ合はせて結ばれぬ、西片町のその名さへ、今はさながら恨めしやと。千々に砕くる、うき思ひ。身を八ツ裂の九段坂。百千段に刻んでも、足の運びは、はかどらぬ。もどかしさよと振向けば。人の歎きを知らぬかの、町の賑ひ、電燈の、ほめきは神田ばかりかは。日本橋さへ、京橋さへ、そこと見えるに、片町は、
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