こわれ指環
清水紫琴
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)腸《はらわた》を
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)仲|善《よ》かりし
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あなたは私のこの指環の玉が抜けておりますのがお気にかかるの、そりやアあなたのおつしやる通り、こんなにこわれたまんまではめておりますのは、あんまり見つともよくありませんから、何なりともはめかへれば、宜しいので……ですが私の為にはこの指環のこわれたのが記念でありますから、どうしてもこれをはめかへる事が出来ないのです。ああ月日の経つは誠に早いものでこの指環をこわしてから、もはや二年越になります。そのうちたびたび皆さんが、なぜそんな指環をはめてるの、あまり不似合じやアないかと、おつしやいましたが、これには実に深い子細のある事で、それが為、強ゐてそのままにはめておりますのですが、外ならぬあなたの事、いつそこの指環についての私の経歴をお話し致しませう。誠に私は、この指環を見まする毎に、腸《はらわた》を断ち切らるるよりもつらい思ひを致すので……ですが、これは片時も私の手を離す事は出来ません、それは何故と申せば、この指環は、実に私の為の大恩人なので、それはまた何故かと申せば、この指環が、私に幾多の苦と歎《なげ》きとを与へてくれましたお蔭で、どうやらかうやら、私は一人前の人間にならねばならぬという奮発心を起こしましたからの事で。ですから、この指環は、いつも私の志気を鼓舞し、勇気を増すの媒《なかだち》となりまして、私の為にはこの上もなき励まし手なのでございます。……、人から御覧なされば、たいそう見苦しいようでござりませうが、私にとつては、実に千万金にも替へ難い宝で、真《まこと》に私に似つかわしき品なのでございます。あなたはまだ、私の委《くわ》しい経歴は御存じないでしやうが。私の身の上は、実にこのこわれ指環によく似てゐるのでござります。この指環と共に、種々《いろいろ》の批難攻撃を人から受けますが、心あつてこわした指環、なんのそれしきの事はかねての覚悟でござりますもの、別に心にも止めませんが、ある時はこの指環を見て、ああ妾《わらは》と共に憐《あわ》れなる指環よと、不覚の涙に暮るる事もあるのです。けれども、また心をとり直して、人はいざ、神は私の心を知ろし召してくださいますから、と思ふて、自ら慰めております。ああこのこわれたる指環、この指環に真《まこと》の価《あたひ》の籠もつてゐるとは、恐らく百年の後ならでは、何人《なんぴと》にも分りますまい。
何だか改まつてお話を致しませうと存じましたら、もう胸がいつぱいになつて参りました。忘れも致しませぬ、私がこの指環を私の手にはめる事となりましたのは、今よりてうど五年前のことで、私が十八の年の春でありました。私はちようどその春結婚致しましたので……夫から贈られたものなんです。けれどもただ今で申します契約の指環なぞと申すつもりで与へられたものではありません、ただ何心なく私に買つてくれましたものでござりますが、今から申せば、これを契約の指環と申しても差支へはないのでございませう。
全体その節、私が結婚致しました頃などは、女子教育の種子《たね》が、ようやくちらほらと、蒔《ま》かれたと申す位の時でござりましたから、私も今日の思想の半ばをすら持ちませず、殊《こと》に私は地方におりましたものですから、同じ五年前でも、東京の五年前とはよほど違ひまして、西洋人の夫婦間のありさまなどは、全く夢にも見ました事はござりませず、また完全なる婚姻法はどんなものと申す事も聞かず、ただただ日本古来の仕来《しきた》りのままをあたりまへの事と心得ておりました。そして、また私が教育を受けた女学校などでも、その頃は、専《もつぱ》ら支那風の脩《しゆう》身学を修めさせまして、書物なども、劉向列女伝《リユウキヤウれつじよでん》などと申す様なものばかり読ませておりましたから、私もいつとはなくその方にのみ感化されまして、譬《たと》へば見も知らぬゆひなづけの夫に幼少の時死に別れたればとて、それが為に鼻を殺《そ》ぎ耳を切りて弐心《ふたごころ》なきを示せしとか。あるひは姑が邪慳《じやけん》で嫁を縊《くび》り殺さうとしても、婦にはいつも自ら去るの義なしとて、夫の家を動かなかつたとか申す様な事を、この上もなき婦人の美徳と心得ておりました。ですから、その時分の考へでは、夫といふものは、実にどの様な人が当るかも知れず、てうどかのみくじとか申すものを振るやうに、吉でも凶でも当つたものは仕方なく、ただただ天命に任《ま》かし、自分は自分の義を守り、生涯を潔く送るまでの事と覚悟致しておりました。それに、母は女大学をソツクリそのまま自分の身に行なつて解釈して見せたと申す位の人でありましたから、父に対しましても、敷居を隔て、手をつかへてでなくては滅多に話などは致しませず、すべて父へのあしらい方が、お客様に接する様でありましたから、私は子供の時から、なぜよそのお父さんは、あんなに心易いのだらうと、よその父子《おやこ》の間柄を、不思議に思ひます位でありました。さように母は父に遠慮ばかり致しておりましたものですからこれにもまた大ひなる感化を受けまして、私はただ何かなしに、婦人の運命は憐れはかないものよとのみ思ひ込んでをりました。けれども、その頃既に幾分かどつかに承知の出来ぬところがありましたものと見へまして、時々は、どうも婦人の運命は誠につまらないが、どうか私は一生人に嫁がないで、気楽に過ごす事は出来ぬ事かと、思ふた事もありました。そう致して、十五六歳の頃でござりましたろふ、しきりに父母は私に結婚を勧めました。それは一度や二度の事ではなく、断つても断つても、不思議に、またかまたかと思ひますほど、ここはどうだ、かしこはどうだと申して、いろいろのさきを勧められました。けれども私はただいやでございますいやでございますの一点張りで、押し通してをりましたが、始めの内こそ、母も何分まだ年が参りませんから、も少し見合はせましても……と、父に申してくれましたが、十八といふ年の正月になつた時は、もうもう、母も、私の為に弁護の地位には立つてくれませんでした。そして父も、この時はもうそろそろ少し腹を立てまして、我儘なことをいふ奴じや、全体おまへの躾が悪いからッて、時々母にまで小言を申す様になりました。かくてある日の事でした、父は私をちよつとと、居間へ呼びますから、何の用かと行つて見ますれば、父は私の座につきますのをまちかねたといふ面持《おももち》にて、断然と結婚の事を申し渡しました。その時の私の驚き、実に思ひ出しても冷汗が出る位です。かねてよりかくのたまはば、こう、こうのたまはば、かくと、いひわけは、どれ程か思案も致してをりましたが、その時のやうに、かくすつかりと断定してこうしろと命令を下されんなどとは、思ひも寄りませんでした。ですから、ただ呆気《あつけ》にとられまして、ただソーツと、父の貌《かほ》を見上げましたが、父は嫌といふなら、いつてみよといはぬばかりの、意気込みでした。しかし母も脇に坐つてをりましたから、何とか申してくれることと信じて、心待ちに待つてをりましたが、母も父の権幕に恐れましたか、ただしはかねて承知致してをりましたものか、何とも申してくれませんで、ただ心配そうに私の顔を眺め、早くハイと申し上げよといはぬばかりに、眼顔で知らせてをりました。私はかく両方から柔に剛に睨《にら》まれ、何と申して宜しきやら分らず、殊に常からあまり心易くはなき父、誠に当惑致しましたが、終《つい》に一生懸命で、震ふ唇を噛みしめて、「何分まだ勉強が足りませぬから、今少し御猶予を」と、半ばいはせず、父はピカリとしたる眼《まなこ》にて、私を睨み、「何ッ勉強が足りない? と、馬鹿な事をいふッ、普通《ひととおり》の勉強はさせたでないかッ? 何が不足? 何が気に喰はぬ? 我儘者めが」。と鋭くもいひ放ちました。母は悪いことをと申す面持にて、私を見遣りましたが、私はさる了見で申しました事ではありませぬといひ訳致さんにも、とみには口へ出ず、やうやくにして、また、「どうか私は、東京の女子師範学校へでも参りまして」といはむとせしに、これもまた半途にて父に遮られ、「何ツ、師範学校、フウン、小学校の教師になつて、それからどうするチユウんだ、一生独りで遣り通すといふ事は容易に出来るもんじやアないツテ、その、そんな、そのわけの分らない事をいはないで、いふ事を聞くが宜しいツ、今更どうなるもんか、お母《つか》さんに話してあるから、よく聞くが宜しい」ツて、ポイと立つて、どこへか行つてしまいました。あとで母はしみじみと私に申し聞かせました、「お父さんの御性分として、あの様に仰しやつては、滅多にあとへはおひきなさるまい、殊にこの度の先はよほどお父さまにもお気に召した様子、仲人もかの松村氏なり、必ず為《ため》悪《あ》しくは計らふまじ、これほどの履歴もあり、これ程までの学問もあるとの事、たやすく得られる縁談ではないほどに……そして、女子《おなご》といふものは、よい加減の時分に片付かないでは、とうとうよい先を見失つてしまふもんだから……」と、遂にはおろおろ声になつて説き諭しました。私もただ今ならば、なかなかこれらの事に得心は致しませんが、その時はほんのおぼこ娘であつて、そしてまたとても一度はどこへか遣らるものと覚悟してをりましたから、心弱くもうけひくとはなしに、うけひきました。いまさら思へば、私はなぜこの時に、も少し手強く断らなかつたかと、我ながらも不思議な様に思ひます。それから、母は、見合ひの事をいひ出しまして、明後日《あさつて》都合がよくばと、先方からの申込み、善は急げだから、お前もそのつもりで、明日は髪をも結ひ、着物や襟の取合はせなども考へて、おくがよかろふと申しました。なれども、私はこの時、何と申して宜しいやら分りませぬから、ただハイと申しましたものの、その後我が部屋へ帰りまし、つくづくと考へて見ますれば、既に九分九厘まで父が極めた結婚、見合ひを致した上で、嫌と申したところがその申し条の立ツ筈もなく、ただ恥しき思ひをして、先方に顔を見らるるばかりなるは、実《まこと》にどうもつまらないと思ひましたから、わざと片意地に見合ひをする事は嫌ですと、母に申し張りました。今から思へば、これもまた馬鹿なことで、実に私の失策でした。けれども、また退いて考へますれば、私は幼《いとけな》き時から、学校の友達か、親戚の外は、滅多に人に逢つた事はござひませず、父の客などが参りました時なども、たまたま私が玄関などにうろついてをりますと、いつも母がそれお人がいらしツた、はやく陰《かく》れよ、それそちらへと、納戸へ逐ひ遣らるるが習はしとなつておりましたから、人を見る目などはなかなかもつておりませんでした。ですから、たとへこの時見合ひを致しましたところが、やはり何も私には分らなかつたので、なまじい極まらぬ前に見て、とやかくと心配致したよりも、むしろしばらくでも、嫁入りはいやとおもふ内に、もしやどういふ人かと幽かにボーツと楽しんだところもあつただけが、まだしも幸いだつたかと、せめてもの思ひ出にして、あきらめておりますのです。
それからとうとうその年の弥生、桜の咲くといふ頃に、まづまづ結婚は済ましました。けれども、なぜか私はどうしてもその夫に馴染む事が出来ず、二三ヶ月といふものは、まるで自分は、一生ここの家におるべきものか、何だか分りませんでした。夫は私を愛してくれたのでもありませうか? 時々博物場や、なんかへ、連れて行つてくれまして、何を買つてやらふ、かを買つてやろう、などと申しました事もありましたが、私はどうもものを買つて貰ふ気にはなれませんでした、それは何故かなれば、私はどうも、そこの家の人になつたのか何だか、自分にちつとも心が落着きませんからの事で、そして一所に歩行《ある》いたり、なんか致しましても少しも、楽しい事はなく、ただただ我が里におりました時の事のみを思ひ出しまして、どこへ参り
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