ましても、ああお母《つか》さんや姉さんと一所にここへ来たならばと、そればかり思ふておりました。その内、ある日の事でした。十五六ばかりの小女《おんな》が、どこからか手紙を持つて使ひに参りました。下女は何心なく執次《とりつ》いで、私の傍へ持つて参りますを、夫は何故か急き手を差延べまして、こちらへ持つて来ればいいじやないかと、下女を睨《にら》みつけました。私は何の事だか少しも分らず、つまらぬ事に腹を立てる、怖らしい人よと、ふと心に思ひました。夫はやがて、かの手紙を見終りていつになくくるくると巻いて袂へ入れ、いづれこちらから返事するといひ置けと、下女に申し付けて、かの使ひを戻しました。そしてその晩の事でした、ちよつと近所まで散歩に行つてくるからと申して出て行きましたが、十時になつても、十二時になつても、帰つて来ず、私はぜひ夫の帰りますまではとぞんじまして、褥《しとね》をも敷かせず、幸いの折からと、学校の友達へ送る手紙など認《したた》めておりました。その内、だんだん夜も更けて参りますから、私はとにかく下女などは休ませやうとぞんじまして、先に寝かしましたが、一人の下女はお淋しからふからと申して、私のとぎに、傍へ参つておりました。そして私が手紙を認めてゐますのをつくづくと見まして、どうも、奥様は、結搆なお手を持つてゐらつしやいます、先の奥様はと、うつかりと申しました。私はその先の奥様という詞《ことば》が、フツと耳にとまりまして、「ヲヤ、私のさきに、誰か居たの」と、思はず下女の貌を見詰めました、この下女は、私よりもズツと以前にこの家に傭はれて参つたので、何もかもよく存じてゐますのですから、今私に問ひかけられ、余儀なくこう答へました。「ヲヤ、私と致しました事が、ついうつかりと……、かような事を申しましては、旦那さまの御叱りを蒙りませうが、もう仕方がござりませんから、申し上げませう、それはあなたのお越になる五六日前までも、このお家に居たお方がありましたので、たしか旦那さまが、書生さんの時分に、下宿なすツてゐらしつたお宅の娘さんなそうでござイます」と、一部始終を語りました。さては、昼間のあの使ひ……、多分……と思ひましたが、下女の手前さる気色は見せられずと、わざと冷淡に、そう、そうかへと、聞き流しに致して、おきました。けれども、この時から、何となく心持が悪しくなりまして、誠につまらぬ事をする人よ、その様な婦人のあるならば、始めより私を迎へぬがよし、また迎へし位ならば、さような事を止むべきにと、思ひましたが、もとよりさる事を口外致す筈でないと、独り心に秘めまして、をもしろからぬ月日を送ツておりました。それから後と申すものは、三月より四月、四月より五月と、だんだんに夫の外出が繁々《しげしげ》になりまして、遂には三日も四日も、いづれへか行きて、家に帰らぬことなどもありました。始めの内は、私も二晩三晩も眠らないで、待つておりましたが、幾夜も続きますと、もうそうそうは眼も続かず、ついとろとろと眠る事もありましたが、もの事と申すものは、何てもあいにくなもので、さような晩に限りまして、夫は深更に帰つて参りました。門を叩く音がふと耳に入りまして、急ぎ戸をひき開くれば、夫は酒気を芬々とさせながら、私を睨み付けまして、「なんだ、先刻《さつき》にから戸の破れる程叩いたじやあないか、なぜ開けない、隣家《となり》へ聞こえても不都合じやないか、夫を戸外に立たせておいて、優々閑々と熟睡しておるとは、随分気楽な先生だ」など、囁《つぶや》かるる心苦しさ。それらの事は、忍ぶ事も出来ますが、夜中《やちゆう》かく怒りの声きこへては、下女などが目を醒まし誤つて夫の帰りの遅きをば、私がとやかく言ひ争ふなど思はれましては、実に不面目極まる事と思ひましたが、それを申し出せばなほさら小言《つぶや》かるることと、ぬれ紙にでもさはる様に、あなたの御無理はごもつともとひたすらに謝りゐり、どうやらこふやら、睡りに就いて貰ふ事はたびたびでござりました。かかるたび毎に、私は、学校に在つた時の事など思ひ出しまして、我が同級のもつとも仲|善《よ》かりし某姉《ぼうし》も、まだ独身であるものを、誰某《なにがし》もまた今は学校に奉職せられしと聞くに、妾《わらは》のみはなど心弱くも嫁入りして、かかる憂き目を受くる事かと、不覚の涙に暮れたる事もありました。
 父はその頃遠方へ行き、里には母のみ残つておりました。母はさすがに女親とて、これらの事の察しも早く、私がたまさか里へ帰りますたびに、どふやらそなたは、近頃顔色も悪ひ様だし、たいそう痩せた様だな、なにか心配でもあるのではないか、お父さんがこちらにゐらつしやれば、どうとも御相談の申し様もあるけれども、女親の私では申したところが仕方もあるまい、まあまあとにかく、お前の身を大事にして、あんまり心配せぬが宜しいと、いはるる時の悲しさ。泣くまじとは思へど、平常《ふだん》気の知れぬ夫の傍に居て、口さがなき下婢《げじよ》の手前などに気をかね、一途に気を張詰めたる身ですから、たまたま嬉しき母の詞《ことば》を聞いてはしみじみ母の慈愛《なさけ》が身に徹して、イイエ、なに、心配などはござりませぬと、口には立派にいひ放ちましても、あいにくに滝なす涙は、私よりも正直に、母に誠を告げました。私はそを見せじとて、ソーツと、手巾《ハンカチーフ》もて目を拭ひ、そしらぬ顔で母の方を見ますれば、母は私より先に、はや眼の縁を真赤にして、をりました。かかる事がたび重なり、母は終《つい》に、それ故と申すでもござりますまい? なれども、平常《つね》から病身の身とて、遂に全く床に就く事となりまして、程なく私の事をいひいひはかなくも、私が十九の秋|朝《あした》の露と消へ失せました。その時の私の心の裏《うち》、申すもなかなか愚かな事でござりました。最初は、母も私の身を早く片付けて安心せんと思ひ、私も母があまりに心配致しますから、母の心も休めたいと、すすまぬ結婚を致しましたが、その結婚が仇となりて、母の命を縮めたかと思ひますれば、胸も張裂ける様でござりました。なれども、私はこれも皆私の行届かぬ故と、観念致しまして、叶はぬまでもと、なほも不遇悲惨の裏に二年の月日を送りました。実に反動と申すものは恐ろしいもので、私はこの結婚後の二三年間において、いつとはなく、非常に女子の為に慷慨《こうがい》する身となりました。もつともその頃は、てうど女権論の勃興致しかかつた時で、不幸悲惨は決して女子の天命でないといふ説が、ようやく日本の社会に顕《あら》はれて参りました。私も平素好めることとて、家事紛雑の傍らにも、ときどきの新刊書籍、女子に関する雑誌などは、絶へず座右を離さず閲覧しておりましたものですから、いつとはなく、泰西の女権論が、私の脳底に徹しまして、何でも日本の婦人も、今少し天賦の幸福を完《まつた》ふする様にならねばならぬと、いふ考へが起こつて参りました。それ故、一つは自分の憂鬱を慰むる為、一つは世間幾多の婦人達の不幸を救はむとの望みにて、時々こむずかしきことなどを申す身となりました。さてそうなつてみると私の覚悟がよほど変わつて参りました。それまでは支那流儀に、ただ何事も忍んでさへゐればよい、自分の幸福をさへ犠牲《いけにえ》にすれば宜しいといふ、消極的の覚悟でありましたが、この時からは、もはやそれにて満足が出来ず、どうぞ、私の不幸はとにかく、夫の行ないをため直して、人の夫として恥しからぬ丈夫《ますらお》にならせたいといふ、一歩進んだ考へになりました。それ故たびたび、真心の諫めを尽くして見ましたが、何分夫は私よりもはるか年もたけ、私よりも万事に経験を積んでおりますものですから、私の申す事は、容易に心に止めませんで、後には何か申し出しますと、またしても賢《さか》しげに女の分際で少しの文字を鼻に掛くるかと、一口にいひ消してしまふ様になりました。これも私のまことが足らぬからの事、私にそれだけの価値《あたい》がないからの事で、あはれ私に、モニカほどの力はなくも、せめて今少し夫の敬重を惹く価値《あたい》がありますなればと、そぞろに身を悔やむ様になりました。なれども破れた布はたやすくつくろひ難く砕けた玉は元のままにはなり難い譬への様に、そこにはまた様々事情があつて、とても私の力には及ばぬ様に思ひましたし、また私が傍におりましてはよしなき、反動を夫に与へて、夫の為にも、かへつて宜しくあるまいと存じましたから、とうとう心を定めまして、不本意ながらも、終に双方で別るる事となりました。それ故私はひたすら世の中の為に働こふと決心しましたが、私は記念の為にこの指環の玉を抜き去りまして、かの勾践《こうせん》の顰《ひそみ》に倣《なら》ふことにはならねど、朝夕これを眺めまして、私がこの玉を抜き去りたる、責めの軽からざることを思ひまして、良しや薪《たきぎ》に伏し肝は甞《な》めずとも、是非ともこの指環の為に働いて、可憐なる多くの少女《おとめ》達の行末を守り、玉のやうな乙女子たちに、私の様な轍を踏まない様、致したいとの望みを起こしたのでござります。
 とはいへ今ではおひおひ結婚法も改まり世間に随分立派な御夫婦もござりますから、それらの方のありさまを見ますと、なぜ私は、ああいふ様に夫に愛せられ、また自らも夫を愛することが出来なかつたのかと、この指環に対しまして、幾多の感慨を催す事でござります。
 ただ幸いに私の父は今なほ壮健《たつしや》で居りまして、大いに私の多年の辛苦を憐れんでくれまして、老躯がよしなき干渉より、あつたら若木の枝を折らせし事よとて、絶へず書を寄せて私を慰めてくれまして、今はかへつて私の志望を賞し、しきりに私を励ましてくれますから、私はこれを何よりの楽しみに、悲しき中に、楽しき月日を送つてゐます。ただこの上の願ひには、このこわれ指環がその与へ主の手に依りて、再びもとの完《まつた》きものと致さるる事が出来るならばと、さすがにこの事は今に……。(『女学雑誌』一八九一年一月一日)



底本:「紫琴全集 全一巻」草土文化
   1983(昭和58)年5月10日第1刷発行
初出:「女学雑誌」
   1891(明治24)年1月1日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※底本では、文末の日付に添えて『女学雑誌』を示す記号として「*」を用いていますが、『女学雑誌』に直しました。
入力:門田裕志、小林繁雄
校正:松永正敏
2004年9月20日作成
2005年11月5日修正
青空文庫作成ファイル:
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