ず、ただただ日本古来の仕来《しきた》りのままをあたりまへの事と心得ておりました。そして、また私が教育を受けた女学校などでも、その頃は、専《もつぱ》ら支那風の脩《しゆう》身学を修めさせまして、書物なども、劉向列女伝《リユウキヤウれつじよでん》などと申す様なものばかり読ませておりましたから、私もいつとはなくその方にのみ感化されまして、譬《たと》へば見も知らぬゆひなづけの夫に幼少の時死に別れたればとて、それが為に鼻を殺《そ》ぎ耳を切りて弐心《ふたごころ》なきを示せしとか。あるひは姑が邪慳《じやけん》で嫁を縊《くび》り殺さうとしても、婦にはいつも自ら去るの義なしとて、夫の家を動かなかつたとか申す様な事を、この上もなき婦人の美徳と心得ておりました。ですから、その時分の考へでは、夫といふものは、実にどの様な人が当るかも知れず、てうどかのみくじとか申すものを振るやうに、吉でも凶でも当つたものは仕方なく、ただただ天命に任《ま》かし、自分は自分の義を守り、生涯を潔く送るまでの事と覚悟致しておりました。それに、母は女大学をソツクリそのまま自分の身に行なつて解釈して見せたと申す位の人でありましたから、父に対
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