建物の屋根々々や尖塔に、寒月が水晶のようにかたァく凍りついて、雲の断片さえもみえぬたかい夜空が白日のように皎々とかがやき、まるでね、陽気が日本の冬のように、音をたてずに肌をとおす底びえのする寒さだった。寒いとおれはきまって腹立たしくなるうえに、じつはめずらしくはいった詩の原稿料で、近所のカフェにはたらいている Lulu という女をつれだし、ひさしぶりでどこかのホテルでブルジョア気分でも味おうと思っていったのだが、リュリュのやつ、もみあげのながい赤いワイシャツをきた絵かきふうの、ロシヤ人らしい青二才とひっついていて、おれのほうはみむきもしないのだ。業腹《ごうはら》だった。のみすけのおれのことだからべつにやけ酒じゃないのだが、端からみたらそうとれるかもしれぬ。ともかく相当あおってそこをでてからタクシーをねぎって、Q街からS河の橋をわたって一時間たらずのところに一画をなしている、ある裏街区域へすっとばすことにした。腹癒《はらい》せもあったが、空にひっかかった月からがして、何かこうおれたちをいじめつけるようにきびしく、ロマンティックで、反撥と誘惑のようなものから、なにかめずらしい冒険のようなものを求めようとする人間の、よわいあえぎかもしれぬ。
どこのどんな文明国にも表があれば裏のあるのはあたりまえのはなしだ。そこはまあ、仮にX街の裏通りとよんでおくが、東京でいえば川向うの世界のようなところで、ひととおりは婬惨《いんさん》で、不潔で、犯罪むきにできている。表に文化の花のほこらしげに爛漫とさきにぎわえば、賑わうほど、裏側にはどぶどろや塵埃《じんあい》やかすが、人目をさけてひとつところによどんでしまう。表通りはふつうの薬局や八百物屋や雑貨店などのせわしげにたちならぶ商店街だが、その商店と商店との間にもうけられたほそい路地へ一歩はいりこむと、そこはもう別世界だ。そこがそれ、君だって先刻御承知のところだろう。
着いたらすでに夜もおそく、どうしたわけかばかに不景気だ。なにしろ、めずらしい寒さではあるし、もうそんな遊び場に夢をもつような男はいなくなったのだろう、いっときのようにひやかしもながれていず、お茶っぴきがあっちの窓こっちの戸口にうろうろしていて、職業《しょうばい》の情熱もうしなったように、煙草のけむを輪にふきながら、へんにものかなしい亡命的な小唄を口吟《くちずさ》んでいたり、
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