、其の立ち上った瞬間、隣室の子供が不図泣き歇《や》んだのであります。乳房を啣《ふく》ませてやらなければ絶対に泣き歇まぬ守が、其の場合急に静かになったので、何気無く好奇心を覚えて境目の襖を二尺程開き寝床を覗いたのであります。すると、閣下よ、其の部屋には既に妻が居て長々と寝そべり乍ら私に背を向けて守に乳を与えて居るではありませんか? 即ち傍らに立ち上った妻ともう一人隣室の妻とを、瞬時ではありましたが同時に目撃した訳であります。おや、変だぞ、と気付いた時には、既にもう一人の妻は消えて、消えたと同時に守は再び火のつく如く泣き立てたのであります。私以外に、無心の守迄がもう一人の母[#「もう一人の母」に傍点]を見たに相違ありません。妻も自分の分身を発見した筈で有りまして、額に幾条かの冷汗を垂らし乍ら急いで守に乳房を啣ませる動作に移って了いましたので、其の事件は其の儘私の幻覚として忘れ去って了いました。妻の真蒼に成った顔色を今でも思い浮べる事が出来ます。閣下よ、妻は正しく不思議な病気、――若しそれが病気と呼び得るならば、――ドッペルゲエンゲルの重篤患者に相違ありません。嗚呼、閣下は又しても私を嘲笑し
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