す。地勢から見て、私の借家は其の頃|鉋屑《かんなくず》の如く他愛無く燃え落ちた時分なのでありましょう。子供の顔が眼先にちらついたのは憶えて居りますが、それから後の事は全く追想する事が出来ません。私は、道端の人達の間に其の儘意識を失って倒れて了ったらしいので有ります。……
何時だか恰《まる》で見当も付きませんが、翌日眼を寤《さま》した所が、閣下よ、A警察署なのであります。刑事部屋へ呼び出されますと、黒い服を着た男が茫乎して居る私に姓名と住所を訊き糺した上、御気の毒だね、昨夜《ゆんべ》の火事で、あんたの奥さんと御子さんが逃げ遅れて焼け死んで了ったよ[#「あんたの奥さんと御子さんが逃げ遅れて焼け死んで了ったよ」に傍点]、と悔みの言葉を吐くではありませんか? 昨夜人事不省に陥って居た私は、其の警察署で保護を受けて居たらしいので有ります。有難い事です、至極有難い事です、が、――警察は昨夜湯島天神境内で私が妻を殴打した事実を知らないのでありましょうか[#「警察は昨夜湯島天神境内で私が妻を殴打した事実を知らないのでありましょうか」に傍点]? 恐らくあれ位殴れば息は切れた事と思います。それなのに、
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