始めますと、運転手は迚《とて》も寒くなりました、旦那、風邪を惹きますよ、と注意を促して居る様でしたが、後は耳に入らず其儘車の震動に身を委せて居眠りを続けて了いました。どの位経ったか全く憶えが有りませんが、旦那、火事ですよ、火事です、旦那、……と云う声にはっと眼を寤《さま》しました。其処は高円寺駅付近の商家道路で、乗って居る自動車は其の隅の方に停車して居るので、どうしたんだ、と訊きますと、もう是以上這入れません、済みませんが降りて下さい、と云うので、火事では大変だと思い遽《あわ》てて道路に駈け降りますと、外は烈風に加うるに肉の斫《き》りとられる様な寒さで、寝巻の上にどてらを羽織った男女が大勢道路の両側に立って居て、火事だ、火事だ、何処だ、行って見ろ、等と口々に叫び乍ら脛を丸出しにして駈け去って行く人達の後から、ウ――ウ――と癇高い警笛を鳴らしつつ数台の消防車が砂塵を立てて疾走して行くので有りました。私も茫乎《ぼんやり》立って大勢の人の向いて居る方を眺めますと、南の空に火の粉がボーボー舞い上って、立って居る所は風上で有りましたが、折柄の烈風で南へ南へと焔が次第に拡大して行く様子なのでありま
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