妻は此の哀愁《かなしみ》をどうなとしてくれと云った様な、いっそ自暴《やけ》半分の乱調子で、いやいや、私は死なないわ、死なない、死なない、だって……だって一緒に逃げれば、死ななくても済むんですもの、と逆襲して行きました。男が其の儘返事に詰って黙って居りますと、私だって役者位やれます、ね、そうして、一緒にどっかへ、遠い所へ逃げて了いましょうよ、と重ねて泪混りに男を口説いて居る様子なのであります。そして二人が黙ると、次第に胸が苦しく成って来るものか再びさめざめと声を揃えて歔欷を始めるのでありました。そう言う言葉の抑揚が、泪を混えた其の雰囲気が、何か夢の中の悲哀の場面の如く感ぜられて、其の二人が悲しみの裡にも其の境遇を享楽して居ると云ったような、或る種の芝居がかった余裕が判乎《はっきり》と分るので、却って逆に私の方ははっと現実的に返ったのであります。畜生、巫山戯《ふざけ》てやアがると、思わず心の裡で呟きました。そうして泪を流す事が彼等の睦事なのではないのでしょうか? 続けて語られた密語は最早や記憶には有りません。思わず赫《か》ッとなってスティックを握った儘、二人の前へ飛び出たのであります。……
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