配ってから、軽く声を掛けると、首を出した楽屋番とも顔馴染らしく、其の儘するすると戸の内部に姿を消して了ったのであります。平素の身汚なさを尽《ことごと》く払い落し、服装から姿態から眼鏡迄、あの水々しい淫売宿のおふささんに成り済ませて……。楽屋口から差す灯を微かに半面に受けて、真白い横顔を薄暗の中に浮び上らせた女が、閣下よ、私の古臭い女房なのでありましょうか? 予期した事とは云い乍ら其の予期通りの現実が腹立たしく、憎悪と嫉妬[#「嫉妬」に傍点]の片鱗を覚え乍ら他方出来る丈苛酷な処置を施してやろうと、狂い上る感情を押え押えともすれば失われ勝ちの冷酷さを呼び起そうと、懸命に努力して居りました。それから約二十分の間、私は曙館の塀に身を潜めて妻と其の相手の現われるのを凝乎《じっと》待って居たのであります。逸《はや》る心を抑えようとすればする程、口腔は熱し二重廻しの両袖が興奮から蝶の羽根の如く微かに震動して居りました。乍然、閣下よ、それから二十分の後に現われた妻の情夫は、情夫と思われる人物は、――意外にも三村千代三ではありませんでした。寔に色の真白な女の如き優男ではありましたが、五尺三寸にも足らぬ小
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