は向いの三好野に喰い度くも無い汁粉の椀などを前に置いて、絶えず楽屋に出入する女に注視の眼を見張ったり、――斯う云う無為の夜が三日許り続きまして、遂に最後の夜、二月末の生暖い早くも春の前兆を想わせる無風の一夜――人眼を憚りつつ楽屋口に現われた妻房枝の、換言すればおふささんの紛《まご》う無き姿を発見する事が出来たのであります。……
其の夜は、暖かい、――寧ろ季節外れの暖さでありまして、外套は勿論毛製のシャツなどかなぐり捨て度くなる様な不自然な暑いとでも謂い度い気温が、浅草中の歓楽街を包み、些も風の動かない為に凝乎《じっと》して居ても汗が滲み出る位で、さりとて何時寒く成るとも限らぬ不気味な天候なので、思い切り薄着になる事も出来ず、平素に増した人波に群集はむんむん溜息を吐き乍ら、人|※[#「火+慍のつくり」、第3水準1−87−59]《いき》れの中をぞろぞろ歩いて居るのでありました。妻は、雷門方面から伏眼加減に曙館の正面を通り危うく衝突しそうになる行人を巧みに避け乍ら、恰《あたか》も役者の楽屋を訪問する事なぞ少なくとも初めてでは無い事を証明する様に馴れ切った態度で、それでも流石一寸四囲に気を
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