云う呼名を咄嗟《とっさ》に聞いたからでありました。おふさ、房枝、おふさ、おふささん――言う迄も無く私自身の女房の名を連想したからで有ります。閣下は、同名異人が居るではないか?――と仰言るかも知れません。元より房枝などと云う平凡な名前は東京中にても何百となく在りましょう。乍然《しかしながら》、私があの場合|恟《ぎょ》ッと衝動を受けたのは理屈ではありません。虫ノ知ラセと云うのは斯う云うのでありましょうか。普通の場合ならば平気で黙過する筈であるのに、異様な好奇心に燃えて其の女の顔を確め度いと云う衝動を覚えたのであります。私は腰を泛《う》かしそっと息を殺して其の女の姿が視野に這入る様二尺許り位置をずらせました。そうする事に依って女の側面の一部を窺う事が出来たのであります。髪を真黒な丸髷に結い地味な模様の錦紗の纏いを滑らかに纏い、彼女が芸者上りの人妻らしい女で有る事が直ちに想像され、チラリチラリと仄《ほの》かに視野に入る横顔の噛み付き度い程愛らしい鼻の上に淡褐色の色眼鏡が懸けられ、長火鉢の縁に肱を突き乍ら南京豆を噛じって居るのですが、其の為に袖口が捲れて太股の様な柔らかい肉付の腕が妖しい程真白い
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