始めますと、運転手は迚《とて》も寒くなりました、旦那、風邪を惹きますよ、と注意を促して居る様でしたが、後は耳に入らず其儘車の震動に身を委せて居眠りを続けて了いました。どの位経ったか全く憶えが有りませんが、旦那、火事ですよ、火事です、旦那、……と云う声にはっと眼を寤《さま》しました。其処は高円寺駅付近の商家道路で、乗って居る自動車は其の隅の方に停車して居るので、どうしたんだ、と訊きますと、もう是以上這入れません、済みませんが降りて下さい、と云うので、火事では大変だと思い遽《あわ》てて道路に駈け降りますと、外は烈風に加うるに肉の斫《き》りとられる様な寒さで、寝巻の上にどてらを羽織った男女が大勢道路の両側に立って居て、火事だ、火事だ、何処だ、行って見ろ、等と口々に叫び乍ら脛を丸出しにして駈け去って行く人達の後から、ウ――ウ――と癇高い警笛を鳴らしつつ数台の消防車が砂塵を立てて疾走して行くので有りました。私も茫乎《ぼんやり》立って大勢の人の向いて居る方を眺めますと、南の空に火の粉がボーボー舞い上って、立って居る所は風上で有りましたが、折柄の烈風で南へ南へと焔が次第に拡大して行く様子なのであります。地勢から見て、私の借家は其の頃|鉋屑《かんなくず》の如く他愛無く燃え落ちた時分なのでありましょう。子供の顔が眼先にちらついたのは憶えて居りますが、それから後の事は全く追想する事が出来ません。私は、道端の人達の間に其の儘意識を失って倒れて了ったらしいので有ります。……

 何時だか恰《まる》で見当も付きませんが、翌日眼を寤《さま》した所が、閣下よ、A警察署なのであります。刑事部屋へ呼び出されますと、黒い服を着た男が茫乎して居る私に姓名と住所を訊き糺した上、御気の毒だね、昨夜《ゆんべ》の火事で、あんたの奥さんと御子さんが逃げ遅れて焼け死んで了ったよ[#「あんたの奥さんと御子さんが逃げ遅れて焼け死んで了ったよ」に傍点]、と悔みの言葉を吐くではありませんか? 昨夜人事不省に陥って居た私は、其の警察署で保護を受けて居たらしいので有ります。有難い事です、至極有難い事です、が、――警察は昨夜湯島天神境内で私が妻を殴打した事実を知らないのでありましょうか[#「警察は昨夜湯島天神境内で私が妻を殴打した事実を知らないのでありましょうか」に傍点]? 恐らくあれ位殴れば息は切れた事と思います。それなのに、
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